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犬本番猫支度

Simple and Clean

未来を選べ

何かを終わらせることを決断するのは難しい。何かを始める手間と、何かを終わらせる手間を比べると、始める手間の方が絶対に大変だ。積み上げるのには時間がかかるけど崩すのは一瞬で、終わらせる決断をすることで失ってしまった気持ちはもう取り返せない。だから何かを終わらせる決断を下すのは難しい。

それでも私は終わらせることを決断してしまうことが多くて、それはこのまま何かを続けても面白くならないなと思ってしまうと、もう興味を持ち続けられなくなるからだった。飽きっぽい性格ってわけじゃないと思うんだけど……きっと色々なものを好きになる好奇心を持ってるってことは、好きなものへの興味を簡単に失う薄情さを持ってるってことでもあるんだろうな。

私の感情を更新し続けないといけない、プロサッカーのリーグみたいに自分の中の一部を強制的に入れ替えないといけない、私の中にはそんな衝動がずっとあって、それが私の中で長く続いていた気持ちを終わらせることがある。こんなの衝動は大なり小なり誰もが持ってるんじゃないかって思うけど、その衝動に従っている人はあまり見かけることがない。きっと世の中の多くの人はそんな衝動に打ち勝ってコツコツと何かを積み上げ続けているんだろうな。衝動的に取り返しのつかない決断をしてしまう私は、感情が大人になりきれていないだけなのかもしれない。

自分の決断が正しかったかどうかなんてわからない。何か決断をした後、頭の中に後悔がよぎらなかったことはなくて、それは私が選ばなかった選択肢が導いた未来を想像してしまうからだった。過去にこだわっても今を変えることはできないから、後悔するなんて無駄だよなって思うけど、未来のことだけを考えて生きていくのは難しい。

過去の反省は、未来に生かすためにやるもんだ。何かを長く続けて、積み上げることができるってことは、一度下した続けていく判断を信じて貫き続けてられているからだ。私は過去の決断を信じ続けることができなくて、過去と未来を繋き続けていくことができない。過去を反省しなかったら、過去を裏切るって判断をすることもなかったかもしれないのにね。

でも何かを終わらせようって決断したときも、それを始めた過去の決断が間違ってたって思ったからじゃないんだよね。過去の決断は正しかったと思わないと前を向いて生きていけない。でもその過去の決断が現在の自分にとっても同じように価値があるとは思えないから、今の私は今の価値観で決断していく。その繰り返しでやっていくしかない。

自分の手元にある選択肢によって自分の運命が変わるなんて勘違いだ。どんな決断をしても最低の未来しか待っていないかもしれないし、自分の決断とは無関係に素晴らしい未来が待っているかもしれない。私の決断によって夢見る未来への道が開くなんて幻想だってわかってる。それでも私は色々なことを決断し続けていくことに頭を悩ませていて、それはきっと決断をするときが一番、私が私として生きていることを感じられるからだ。掴んだ未来が最低でも、それが私の決断なら、それが私の未来だ。

今となっても辛い思い出

昔の辛かったことを思い出したときに「今となってはいい思い出だ」って感じてしまうことが許せない。辛かった気持ちを忘れたからそう思えているだけで、当時の私に言わせればそんなの歴史の改ざんでしかない。辛かった思い出は辛かった思い出として思い出し続けなきゃと思う。なんて思っていても、時間が経つと辛い気持ちを忘れてしまうのが人間だ。忘れたくない気持ちは何かの形に残しておく必要があるんだろうな。

言葉にした気持ちをネットで公開することができるようになり、私はそのときの記憶をネットに留めておくことができるようになった。紙の日記に書くような誰にも見せないことを前提とした言葉と、ネットに公開する誰かの視線を意識しながら書いた言葉は違う。ネットに公開することは、自分の気持ちを足跡として残していくことだ。言葉を後から訂正することはできるけど、その言葉自体を無かったことにすることはできない。そのことが私の言葉に責任を伴わせていくし、未来の私へすこしの余韻を残していく。感情を込めた言葉を残してしまうと「黒歴史」だって後から恥ずかしく感じてしまうかもしれない。でも怖がって歴史を何も残さなかったら、未来の自分は無意識で好き勝手に過去を美化できてしまう。だから言葉は残し続けていかなきゃならない。

実際には辛いときに「つらい」ってそのまま書くことはなくて、私の場合「楽しくなってきた」とか「犬の動画を見続けている」みたいな、全然違う言葉が近況としてSNSに流れていくんだけど、未来の私はきっと、この言葉を読み返して当時の辛さを思い出せる。そのまま感情を書けないのが私だし、感情を正しく書き残したいからむしろ言葉を選ぶのが私だし、きっと誰だってそうなんだ。過去の私も今の私も未来の私もそれを理解してる。言葉の上辺だけで誰かを理解したつもりにならないためにも、自分が上辺だけの言葉を選ばないように心がけなきゃいけないなと思う。

気持ちを言葉にするって大切だ。切実な言葉を生み出そうと悩んでいるからこそ、切実な言葉を汲み取れるようになる。正しい理解じゃなくても誰かの言葉に対して想像を膨らませられることは素敵だから、気持ちを言葉にすることには悩み続けていきたいなと思う。

物語にある教訓と快楽

私は物語に教訓を求めていると思っていたけど、実はそうじゃないのかもしれないなと最近は思うようになった。

自分の身の回りにチャンスの予兆があるとき、私は無意識に物語が恋しくなった。私はたくさんの物語を受け止めて、そこから得た教訓を生かすことでそのチャンスを確実に得たいと思っていた。物語には作者が込めたメッセージが必ずあり、私はそのメッセージを教訓にすることができると思っていた。物語を参考にすることで、自分の人生をより良くできると思った。

でも教訓を得ることができない物語は世の中にたくさんあるんだよね。物語のメッセージが、教訓じゃなくて単なる快楽だって場合があることにやっと気付いた。ハッピーエンドの物語だけじゃなく、バッドエンドの物語にも、単なる快楽しか得られないものがあるんだ。ただ感情だけを揺さぶる物語は、快楽であり、どれだけ感動したとしてもそこには教訓はないはずだった。私はそんな物語からもなんとか教訓を見出そうとしていたけど、いくら深読みしても「自分が信じたい教訓」を偶然のように見付ける結果にしかならなかった。その教訓は物語に込められたメッセージじゃないんだろうし、それじゃ意味がない。

「物語の正しさ」は、物語を受け止める人の尺度によって変わってくるんだろうなあと思う。現実に生かせる教訓を得たい人は教訓めいた物語を求めるだろうし、現実を忘れたくて物語に飛び込んだ人は物語に快楽を求めるだろう。現実でも快楽を得たいから物語の快楽を参考にする、って場合もあるだろうから「正しさの尺度」って単純に二分割できるようなもんじゃないんだろうなと思うけど、とにかく正しさは人によって異なるんだろうなと思う。

物語の良し悪しはどのようにして評価されるべきなんだろうなあって、最近は考えてる。人によって異なってしまう「物語の正しさ」は評価軸しては適切じゃないんだろうなあと思うけど、それならどうやって物語は評価されるべきなんだろうか。物語の適切さだろうか。美しさだろうか。

そんなことを最近は考えていました。

感覚的に嫌いな私を許して

何かを好きって言うよりも嫌いって言うほうが気をつかうのが最近のSNSのご時世であり処世術なんだけど、そんなことは分かっていながらも何かについて嫌いだって書いてしまっている誰かの言葉が私は好きだ。

ファンの人に検索されないよう伏せ字を使ったり、露骨に嫌いだとは書かないように言葉を選んでいるんだけど、そこまで気をつかいつつも心にしまっておくって選択はできなかった、その誰かの嫌う言葉ってとても練られていて面白いなって思う。どうしてもこのネガティブな気持ちを何らかの形で吐き出さずにはいられなかったんだ! って気持ちが見え隠れしてしてる言葉があれば、自分がそう感じた理由をきっちり書くことで、みんなに嫌いな気持ちを納得してもらおうとしてる言葉もある。好きって言葉よりもその人の個性が出てるときがあって、その言葉に私が納得できるかどうかってことは関係なく、面白いと思える。

嫌いなものを嫌いって言うよりも好きなものを好きって言ってたほうが楽しいしポジティブだなって思うよ。でも嫌いな気持ちを全く抱かないなんてことはないし、ネット以外ではその嫌いな気持ちを誰かに言ってたりする。嫌いって気持ちは自分の中に確かに存在してる。その嫌いって気持ちを心に留めておくのもネットで言葉に残していくのもその人の自由だ。その人のホーム画面に好きと嫌いの両方の言葉が並ぶとその人の輪郭がちゃんと見えてくる気はするけど、輪郭を隠したい人だっているだろう。でも私は言葉から見えてくる、その人の輪郭が好きだ。

好きって気持ちを突き詰めていくと感覚的なところにたどり着いてしまうことがあるように、嫌いって気持ちも感覚だったりする。だから「それを正しく理解すれば嫌いになんてならない」ってことにはならない場合がある。感覚的に嫌いなのはもう仕方がないことで、嫌われた側も諦めるしかないし、気にすることもない。誰かから何かを好きな理由を聞いて、私もそれを好きになったりすることはあるし、素晴らしい評論には理屈で感情を動かす力があると思うけど、毎回そんなことが起こるとは限らない。誰かの好きな理由が私の中にある嫌いな気持ちを覆せない可能性はあるし、それは仕方ないと思って欲しい。

過度に共感を求め続けていくことは、好きな気持ちを強制していくことに繋がっていく。共感を求められて同調していくうちに、自分の感情とは違う言葉ばかりを書くようになってしまったら、もうその言葉には価値がない。嫌いって言葉には、そんな共感や同調に反発していくような強さがあるし、その言葉はその人の本音なんだろうなって思える。好きって言葉と嫌いって言葉が両方平等に転がっている世界で、好きって言われたことにが価値があるんだよね。間違いなく。(なので嫌いって常に言ってるような人の言葉には価値がないし、嫌いな感情ばかり聞かされても単純につまらないです)

CDと私の関係について

CDを聴きながら歌詞カードを読んでいる私がいた。ケース裏面の曲目を眺めていると次の曲が待ちきれなくなってしまって先の曲の歌詞だけ読んでしまったり、細かい字のクレジットを隅々まで読んだりしていた。驚いたよ。こんな気持ちになったのは何年ぶりだろう。

数年前の私は月に十枚くらいCDを買っていた。音楽を聴くのはパソコンやiPhoneからだったから、買ってきたCDはまずパソコンに取り込んでたんだけど、ケースを開くのはパソコンに取り込もうとしてCDを取り出すときだけで、そのCDが回転するのはこのパソコンの中で一度きりだった。買ってきた数枚のCDをパソコンのディスクトレイに差し替えて、パソコンで取り込みボタンをクリックする作業が面倒だった。そもそも私は面倒くさがりなのだ。眠たいときはパソコンへの取り込みを後回しにしてしまうことがあったし、そのまま一ヶ月ほどパソコンの横に未開封のCDが置きっぱなしになってしまってることもあった。ひどいね。パソコンに取り込んだ後のCDはラックに無造作に突っ込まれ、CDの背表紙だけが少しずつ日に焼けていくことも気にならなかった。CDというモノへの興味はかなり薄れていたんだけど、CDを買うことが音楽ファンの務めなんだ! って強く信じながら私はCDを買い続けていた。

そして一年半前に定額制の音楽配信サービスに加入したんだけど、これが私にとっての大きな転機だった。毎週水曜日になったら新曲をダウンロードして聴ける。これって本当に便利だよね。新曲は全曲フルで試聴できるし、試聴する感覚でダウンロードしたっていい。たくさんの新曲リストが目の前にあって「これ全部追加料金なしで聴いていいよ」ってことなんだから、もう新しい音楽を聴きたい欲望に忠実になってしまうよね。そんな感じで毎週配信される新曲に夢中になっているうち、気が付くと私はCDをほぼ買わなくなっていたのだった。CDショップに足を運ぶ回数が激減したし、CDショップで試聴して新しい音楽に出会うことはもうなくなってしまった。

こんなにCD買わなくなるか私! って思ったけど、CDを買わない自分を一度許せてしまったら、もうCDを買う生活には戻ることができなかった。何に遠慮してCDで買うことにこだわっていたんだろう、とすら今は思ってしまうよ。CD購入中心の音楽生活を止めてしまったら、音楽配信サービスで配信されていない新曲をデータで買うことにも抵抗がなくなって、ますますCDを買う機会は減っていった。

それでも、CDを買う機会はなくならなかった。大ファンのアーティストのアルバムに映像付きの初回限定盤があったらそれを買いたいなって思ったし、CDでしか発売されない新曲だってあった。私はCDショップに足を運ぶのは、そんな時だけだった。

CDショップで一枚だけアルバムを買って、家に帰った。他にも色々買い物をしていたけど、私はまずアルバムのパッケージを破って、電源を入れたパソコンのディスクトレイにCDを差し込んだ。DVD付きのアルバムだったからBlu-rayプレイヤーの電源を入れて、DVDはそっちのディスクトレイへ。DVDには何が収録されているんだったっけ、と歌詞カードをケースから取り出す――

数年前の私はCDを買うことに飽きていたんだろうな、と思った。久々にCDを手にした私には、CDを買ったとき特有の胸躍る気持ちが戻ってきていた。「CDを買う」ってことを大事にしようと思ってCDを買い続けていた頃よりも他の選択肢を自分に許した後のほうが、CDを愛おしく思うことができているけど、それを私は不思議だとは思わなかった。自分の愛情を超えた量があったら、それぞれへの愛情が薄れてしまうのは当然だ。愛情より作業感が強くなってしまったら、それが飽きたってことなんだろう。

好きなことに義務を課してしまうのが、間違いの始まりなんだろうな。このアーティストのライブは絶対行くとか、この作者の本は絶対買うとか、目標のような「義務」を定めてしまうと、それが達成できなかったときに好きな気持ちへ傷が付いてしまうし、無理して達成しているうちに苦痛になってしまうことだってある。あと「積読」みたいに、買ったものを楽しまないのも止めたほうがいいよね。買うことと、買ったものを楽しむことが気持ちとして結びつかなくなってしまうと、楽しむために買ってるってことを忘れてしまって、義務で買うようになってしまうから。趣味へのお金も使いかたが大事だな、ただお金をかけたらいいってもんじゃないんだな、って強く思う。

好きも嫌いもそれはバランス

好きなものを誰かにけなされて怒ってしまうのは、その好きなものに自分を重ね合わせているからだった。自分の分身のように、自分の守るべき大切なもののように、好きなもののことを感じていた。自分の好きなものがみんなに好かれることなんてない、嫌いな人だってどこかにいるだろうってわかってるのに、自分の好きなものを誰かが嫌うことに過剰反応してしまうのは、個人的な部分に足を踏み入れられたからと思ってしまうからだろう。

じゃあ自分が好きなものをみんなが褒めてくれたらそれでハッピーなのか、って言われるとそうでもないんだよね。映画のキャッチコピーが的外れだって怒ったり、店頭の商品ポップの文句が薄っぺらいって怒ったりする。どっちも作品を褒めようと思って頭を捻った結果なんだろうだけど、それでも「何もわかってない!」って怒ってしまう。同意できない好きに対しては、嫌い以上に腹が立ったりするよね。

私が好きなものを周りのみんなも好きでいてくれる、そのみんなの好きな気持ちも共感できる。こうなったら楽しいのかもしれない。でもそうなったらきっと私は自分の好きな気持ちを疑ってしまうだろうな。周りに気をつかって自分も好きって感じてしまってるんじゃないかって気がしてしまう。好きになるしか選択肢がなくなると、好きか嫌いか考えることすらしなくなる。そうして自分の感覚が麻痺してしまった私は、その好きなものから少しずつ興味を失ってしまうだろう。

これはバランスなんだ。嫌いがあるから好きがある。もし好きな意見だけに囲まれてたとしてもきっとその中から違いを見付けてしまうだろうし、嫌いになれる自由があるからこそ好きであり続けることに意味が生まれてくる。

落ち着いて考えてみると、誰かが好きだとか嫌いだとかって、私が意見できることではないんだった。私が何を好きになってもいいし、嫌いになってもいい代わりに、誰もが何を好きになってもいいし、嫌いになってもいいのだった。それがルールだよ。それに私が本当に興味を持てるのは、誰かが好きになったり嫌いになったりした理由のほうだった。誰かが嫌いになった理由は、私が好きになった理由をひっくり返してしまうかもしれなくて、それはとても怖いことだけど、共感できる言葉だけに囲まれて何も考えないことの方がつまらないと思えた。好きだからこそもっと知りたい、そう思える探究心こそが正しいと思えた。

肯定とか否定とか星の数とか、そんな単純な表現以外で作品を評価できる言葉をうらやましく思うよ。その作品を好きだと言ってしまうと、好きなんだから何を書いてもいいでしょ、って甘えた気持ちになって、その気持ちを正しく言葉に残せなくなってしまうことがある。自分の中にある価値観を言葉にするとき、好きや嫌いは要素の一つに過ぎないんだ。

いいねはいらないね

面白いことを言うことと、面白い話をすることは違うんだなと気付いたのは、「人志松本のすべらない話」が世間で話題になったときだった。周りの人が「すべらない話」をしてみるんだけど、すべるとかすべらないとか以前の、普通の話にしか聞こえなかった。私もすべらない話を用意してみようと思ったことがあるけど、面白い話の骨組みを作ることすらできなかった。テレビでやってたすべらない話を誰かに話してみたけど、その話が全く面白くなくって相手も全然笑ってくれなくて驚いたことってないですか? 同じことをやろうとしてみて始めて、テレビの向こうの芸人さんの話がよく練られたものだったことに気付いて、それがまさしく芸人の「芸」だったことに私は驚いたのだった。

面白い話にビギナーズラックはない。でも面白いことは素人の私でも言えることがある。それってつまり面白いことって、別にその人が面白い人間じゃなくても言えるってことなんだよね。その人に面白さの技術がなくても、悪意や嘘や雰囲気の瞬発力で面白さを作ることができるからだと思う。

誰かと話をするときに、何か面白いことを言おうと思ってしまうのは関西人の性らしい。関西で生まれ育った私は関西以外の地域のことは分からないけど、どの地域の人でも同じような気持ちは持っているんじゃないかなあと思う。相手と楽しい時間を過ごすために、面白いことだったり気の利いたことを言いたくなってしまうのは、地域関係なくあるんじゃないかな。インターネット大喜利を眺めてる限りでは、面白いことを言いたい人が関西に集中してるとは思えないし。

楽しいことを誰かに言いたい気持ちは私も持ってる。でも楽しいことを言いたい気持ちだけが前に突っ走ってしまって、自分が乗っ取られてしまうようになるのが怖いなと同時に思う。楽しいことを言いたいと思い続けていて、ふと気付くと自分の言葉を曲げて、嘘や悪口を口にしてしまっていることがある。後から「言ってること自体は間違ってないんだ」「愛があるから厳しいことも言えるんだ」みたいな言い訳で誤魔化したりするんだけど、でも自分の気持ちを裏切って適当に言葉を使ってしまったことは変わらなくて、私の心に影を落とし続けてしまう。

私はこのブログの言葉が多くの人に読まれたらいいなとは思っているけど、嘘をついてまで多くの人に言葉を届けようとは思ってない。私は誰かに読まれることを想像して文章を書いてるけど、誰かに楽しんでもらったりするために、自分の言いたいことまで捨ててしまいたくはないのだった。

このブログの私が常に自分に正直でいられているとは思わないし、筋の通ったことを書いている自信もないんだけどね。ブログに合わせて文章の表現を変えているし、ブログに書くべきことじゃないなと思ったことはボツにしてる。でも自分の言葉くらいは大事にしたいと思うし、そのためなら読む人を不快にしても仕方ないなと思って書いてます。(そんなわけで先週は嘘ついてるブログを二つボツにしました)