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犬本番猫支度

Simple and Clean

物語にある教訓と快楽

私は物語に教訓を求めていると思っていたけど、実はそうじゃないのかもしれないなと最近は思うようになった。

自分の身の回りにチャンスの予兆があるとき、私は無意識に物語が恋しくなった。私はたくさんの物語を受け止めて、そこから得た教訓を生かすことでそのチャンスを確実に得たいと思っていた。物語には作者が込めたメッセージが必ずあり、私はそのメッセージを教訓にすることができると思っていた。物語を参考にすることで、自分の人生をより良くできると思った。

でも教訓を得ることができない物語は世の中にたくさんあるんだよね。物語のメッセージが、教訓じゃなくて単なる快楽だって場合があることにやっと気付いた。ハッピーエンドの物語だけじゃなく、バッドエンドの物語にも、単なる快楽しか得られないものがあるんだ。ただ感情だけを揺さぶる物語は、快楽であり、どれだけ感動したとしてもそこには教訓はないはずだった。私はそんな物語からもなんとか教訓を見出そうとしていたけど、いくら深読みしても「自分が信じたい教訓」を偶然のように見付ける結果にしかならなかった。その教訓は物語に込められたメッセージじゃないんだろうし、それじゃ意味がない。

「物語の正しさ」は、物語を受け止める人の尺度によって変わってくるんだろうなあと思う。現実に生かせる教訓を得たい人は教訓めいた物語を求めるだろうし、現実を忘れたくて物語に飛び込んだ人は物語に快楽を求めるだろう。現実でも快楽を得たいから物語の快楽を参考にする、って場合もあるだろうから「正しさの尺度」って単純に二分割できるようなもんじゃないんだろうなと思うけど、とにかく正しさは人によって異なるんだろうなと思う。

物語の良し悪しはどのようにして評価されるべきなんだろうなあって、最近は考えてる。人によって異なってしまう「物語の正しさ」は評価軸しては適切じゃないんだろうなあと思うけど、それならどうやって物語は評価されるべきなんだろうか。物語の適切さだろうか。美しさだろうか。

そんなことを最近は考えていました。

感覚的に嫌いな私を許して

何かを好きって言うよりも嫌いって言うほうが気をつかうのが最近のSNSのご時世であり処世術なんだけど、そんなことは分かっていながらも何かについて嫌いだって書いてしまっている誰かの言葉が私は好きだ。

ファンの人に検索されないよう伏せ字を使ったり、露骨に嫌いだとは書かないように言葉を選んでいるんだけど、そこまで気をつかいつつも心にしまっておくって選択はできなかった、その誰かの嫌う言葉ってとても練られていて面白いなって思う。どうしてもこのネガティブな気持ちを何らかの形で吐き出さずにはいられなかったんだ! って気持ちが見え隠れしてしてる言葉があれば、自分がそう感じた理由をきっちり書くことで、みんなに嫌いな気持ちを納得してもらおうとしてる言葉もある。好きって言葉よりもその人の個性が出てるときがあって、その言葉に私が納得できるかどうかってことは関係なく、面白いと思える。

嫌いなものを嫌いって言うよりも好きなものを好きって言ってたほうが楽しいしポジティブだなって思うよ。でも嫌いな気持ちを全く抱かないなんてことはないし、ネット以外ではその嫌いな気持ちを誰かに言ってたりする。嫌いって気持ちは自分の中に確かに存在してる。その嫌いって気持ちを心に留めておくのもネットで言葉に残していくのもその人の自由だ。その人のホーム画面に好きと嫌いの両方の言葉が並ぶとその人の輪郭がちゃんと見えてくる気はするけど、輪郭を隠したい人だっているだろう。でも私は言葉から見えてくる、その人の輪郭が好きだ。

好きって気持ちを突き詰めていくと感覚的なところにたどり着いてしまうことがあるように、嫌いって気持ちも感覚だったりする。だから「それを正しく理解すれば嫌いになんてならない」ってことにはならない場合がある。感覚的に嫌いなのはもう仕方がないことで、嫌われた側も諦めるしかないし、気にすることもない。誰かから何かを好きな理由を聞いて、私もそれを好きになったりすることはあるし、素晴らしい評論には理屈で感情を動かす力があると思うけど、毎回そんなことが起こるとは限らない。誰かの好きな理由が私の中にある嫌いな気持ちを覆せない可能性はあるし、それは仕方ないと思って欲しい。

過度に共感を求め続けていくことは、好きな気持ちを強制していくことに繋がっていく。共感を求められて同調していくうちに、自分の感情とは違う言葉ばかりを書くようになってしまったら、もうその言葉には価値がない。嫌いって言葉には、そんな共感や同調に反発していくような強さがあるし、その言葉はその人の本音なんだろうなって思える。好きって言葉と嫌いって言葉が両方平等に転がっている世界で、好きって言われたことにが価値があるんだよね。間違いなく。(なので嫌いって常に言ってるような人の言葉には価値がないし、嫌いな感情ばかり聞かされても単純につまらないです)

CDと私の関係について

CDを聴きながら歌詞カードを読んでいる私がいた。ケース裏面の曲目を眺めていると次の曲が待ちきれなくなってしまって先の曲の歌詞だけ読んでしまったり、細かい字のクレジットを隅々まで読んだりしていた。驚いたよ。こんな気持ちになったのは何年ぶりだろう。

数年前の私は月に十枚くらいCDを買っていた。音楽を聴くのはパソコンやiPhoneからだったから、買ってきたCDはまずパソコンに取り込んでたんだけど、ケースを開くのはパソコンに取り込もうとしてCDを取り出すときだけで、そのCDが回転するのはこのパソコンの中で一度きりだった。買ってきた数枚のCDをパソコンのディスクトレイに差し替えて、パソコンで取り込みボタンをクリックする作業が面倒だった。そもそも私は面倒くさがりなのだ。眠たいときはパソコンへの取り込みを後回しにしてしまうことがあったし、そのまま一ヶ月ほどパソコンの横に未開封のCDが置きっぱなしになってしまってることもあった。ひどいね。パソコンに取り込んだ後のCDはラックに無造作に突っ込まれ、CDの背表紙だけが少しずつ日に焼けていくことも気にならなかった。CDというモノへの興味はかなり薄れていたんだけど、CDを買うことが音楽ファンの務めなんだ! って強く信じながら私はCDを買い続けていた。

そして一年半前に定額制の音楽配信サービスに加入したんだけど、これが私にとっての大きな転機だった。毎週水曜日になったら新曲をダウンロードして聴ける。これって本当に便利だよね。新曲は全曲フルで試聴できるし、試聴する感覚でダウンロードしたっていい。たくさんの新曲リストが目の前にあって「これ全部追加料金なしで聴いていいよ」ってことなんだから、もう新しい音楽を聴きたい欲望に忠実になってしまうよね。そんな感じで毎週配信される新曲に夢中になっているうち、気が付くと私はCDをほぼ買わなくなっていたのだった。CDショップに足を運ぶ回数が激減したし、CDショップで試聴して新しい音楽に出会うことはもうなくなってしまった。

こんなにCD買わなくなるか私! って思ったけど、CDを買わない自分を一度許せてしまったら、もうCDを買う生活には戻ることができなかった。何に遠慮してCDで買うことにこだわっていたんだろう、とすら今は思ってしまうよ。CD購入中心の音楽生活を止めてしまったら、音楽配信サービスで配信されていない新曲をデータで買うことにも抵抗がなくなって、ますますCDを買う機会は減っていった。

それでも、CDを買う機会はなくならなかった。大ファンのアーティストのアルバムに映像付きの初回限定盤があったらそれを買いたいなって思ったし、CDでしか発売されない新曲だってあった。私はCDショップに足を運ぶのは、そんな時だけだった。

CDショップで一枚だけアルバムを買って、家に帰った。他にも色々買い物をしていたけど、私はまずアルバムのパッケージを破って、電源を入れたパソコンのディスクトレイにCDを差し込んだ。DVD付きのアルバムだったからBlu-rayプレイヤーの電源を入れて、DVDはそっちのディスクトレイへ。DVDには何が収録されているんだったっけ、と歌詞カードをケースから取り出す――

数年前の私はCDを買うことに飽きていたんだろうな、と思った。久々にCDを手にした私には、CDを買ったとき特有の胸躍る気持ちが戻ってきていた。「CDを買う」ってことを大事にしようと思ってCDを買い続けていた頃よりも他の選択肢を自分に許した後のほうが、CDを愛おしく思うことができているけど、それを私は不思議だとは思わなかった。自分の愛情を超えた量があったら、それぞれへの愛情が薄れてしまうのは当然だ。愛情より作業感が強くなってしまったら、それが飽きたってことなんだろう。

好きなことに義務を課してしまうのが、間違いの始まりなんだろうな。このアーティストのライブは絶対行くとか、この作者の本は絶対買うとか、目標のような「義務」を定めてしまうと、それが達成できなかったときに好きな気持ちへ傷が付いてしまうし、無理して達成しているうちに苦痛になってしまうことだってある。あと「積読」みたいに、買ったものを楽しまないのも止めたほうがいいよね。買うことと、買ったものを楽しむことが気持ちとして結びつかなくなってしまうと、楽しむために買ってるってことを忘れてしまって、義務で買うようになってしまうから。趣味へのお金も使いかたが大事だな、ただお金をかけたらいいってもんじゃないんだな、って強く思う。

好きも嫌いもそれはバランス

好きなものを誰かにけなされて怒ってしまうのは、その好きなものに自分を重ね合わせているからだった。自分の分身のように、自分の守るべき大切なもののように、好きなもののことを感じていた。自分の好きなものがみんなに好かれることなんてない、嫌いな人だってどこかにいるだろうってわかってるのに、自分の好きなものを誰かが嫌うことに過剰反応してしまうのは、個人的な部分に足を踏み入れられたからと思ってしまうからだろう。

じゃあ自分が好きなものをみんなが褒めてくれたらそれでハッピーなのか、って言われるとそうでもないんだよね。映画のキャッチコピーが的外れだって怒ったり、店頭の商品ポップの文句が薄っぺらいって怒ったりする。どっちも作品を褒めようと思って頭を捻った結果なんだろうだけど、それでも「何もわかってない!」って怒ってしまう。同意できない好きに対しては、嫌い以上に腹が立ったりするよね。

私が好きなものを周りのみんなも好きでいてくれる、そのみんなの好きな気持ちも共感できる。こうなったら楽しいのかもしれない。でもそうなったらきっと私は自分の好きな気持ちを疑ってしまうだろうな。周りに気をつかって自分も好きって感じてしまってるんじゃないかって気がしてしまう。好きになるしか選択肢がなくなると、好きか嫌いか考えることすらしなくなる。そうして自分の感覚が麻痺してしまった私は、その好きなものから少しずつ興味を失ってしまうだろう。

これはバランスなんだ。嫌いがあるから好きがある。もし好きな意見だけに囲まれてたとしてもきっとその中から違いを見付けてしまうだろうし、嫌いになれる自由があるからこそ好きであり続けることに意味が生まれてくる。

落ち着いて考えてみると、誰かが好きだとか嫌いだとかって、私が意見できることではないんだった。私が何を好きになってもいいし、嫌いになってもいい代わりに、誰もが何を好きになってもいいし、嫌いになってもいいのだった。それがルールだよ。それに私が本当に興味を持てるのは、誰かが好きになったり嫌いになったりした理由のほうだった。誰かが嫌いになった理由は、私が好きになった理由をひっくり返してしまうかもしれなくて、それはとても怖いことだけど、共感できる言葉だけに囲まれて何も考えないことの方がつまらないと思えた。好きだからこそもっと知りたい、そう思える探究心こそが正しいと思えた。

肯定とか否定とか星の数とか、そんな単純な表現以外で作品を評価できる言葉をうらやましく思うよ。その作品を好きだと言ってしまうと、好きなんだから何を書いてもいいでしょ、って甘えた気持ちになって、その気持ちを正しく言葉に残せなくなってしまうことがある。自分の中にある価値観を言葉にするとき、好きや嫌いは要素の一つに過ぎないんだ。

いいねはいらないね

面白いことを言うことと、面白い話をすることは違うんだなと気付いたのは、「人志松本のすべらない話」が世間で話題になったときだった。周りの人が「すべらない話」をしてみるんだけど、すべるとかすべらないとか以前の、普通の話にしか聞こえなかった。私もすべらない話を用意してみようと思ったことがあるけど、面白い話の骨組みを作ることすらできなかった。テレビでやってたすべらない話を誰かに話してみたけど、その話が全く面白くなくって相手も全然笑ってくれなくて驚いたことってないですか? 同じことをやろうとしてみて始めて、テレビの向こうの芸人さんの話がよく練られたものだったことに気付いて、それがまさしく芸人の「芸」だったことに私は驚いたのだった。

面白い話にビギナーズラックはない。でも面白いことは素人の私でも言えることがある。それってつまり面白いことって、別にその人が面白い人間じゃなくても言えるってことなんだよね。その人に面白さの技術がなくても、悪意や嘘や雰囲気の瞬発力で面白さを作ることができるからだと思う。

誰かと話をするときに、何か面白いことを言おうと思ってしまうのは関西人の性らしい。関西で生まれ育った私は関西以外の地域のことは分からないけど、どの地域の人でも同じような気持ちは持っているんじゃないかなあと思う。相手と楽しい時間を過ごすために、面白いことだったり気の利いたことを言いたくなってしまうのは、地域関係なくあるんじゃないかな。インターネット大喜利を眺めてる限りでは、面白いことを言いたい人が関西に集中してるとは思えないし。

楽しいことを誰かに言いたい気持ちは私も持ってる。でも楽しいことを言いたい気持ちだけが前に突っ走ってしまって、自分が乗っ取られてしまうようになるのが怖いなと同時に思う。楽しいことを言いたいと思い続けていて、ふと気付くと自分の言葉を曲げて、嘘や悪口を口にしてしまっていることがある。後から「言ってること自体は間違ってないんだ」「愛があるから厳しいことも言えるんだ」みたいな言い訳で誤魔化したりするんだけど、でも自分の気持ちを裏切って適当に言葉を使ってしまったことは変わらなくて、私の心に影を落とし続けてしまう。

私はこのブログの言葉が多くの人に読まれたらいいなとは思っているけど、嘘をついてまで多くの人に言葉を届けようとは思ってない。私は誰かに読まれることを想像して文章を書いてるけど、誰かに楽しんでもらったりするために、自分の言いたいことまで捨ててしまいたくはないのだった。

このブログの私が常に自分に正直でいられているとは思わないし、筋の通ったことを書いている自信もないんだけどね。ブログに合わせて文章の表現を変えているし、ブログに書くべきことじゃないなと思ったことはボツにしてる。でも自分の言葉くらいは大事にしたいと思うし、そのためなら読む人を不快にしても仕方ないなと思って書いてます。(そんなわけで先週は嘘ついてるブログを二つボツにしました)

気まぐれな親切

「とっさの判断で人を助けることができるかどうかで、その人の人間性がわかる。考えるより先に身体が動いてこそ、真の善人だ」って風潮があるような気がしている。電車で席を譲るような、悩んだり迷ったりする猶予がある親切は誰にでもできるけど、目の前で子供が車道に飛び出したときにすぐに身を投げ出して助ける、といった瞬発力が必要な行動にこそ、本当の価値があると考えられている気がする。私はそんなとっさの判断が大の苦手なので、真の善人とはきっと認めてもらえない。

私は気が向いたときにだけ良いことをするような人間なので、たぶん心からの善人ではないのだった。本屋で床に落ちている本を見かけたとき、拾って戻すときもあれば、戻さずに素通りするときもある。いまどうして本を戻したの? 戻さなかったの? ってもし誰かに訊かれたとしたら私は「そんな気分だったから」って答える。そんなもんだ。でもきっと世の中の善人は、良いことが正しいという確固たる信念があるに違いなく、良いことをするかしないかで迷うことなんてないんだろうな。

私は昔、親切をされたら嬉しいから私からも親切をするとか、親切をすると巡りめぐって私に戻ってくるとか、理屈めいたことを理由にして親切をしていたことがあった。わかりやすい理由があることで、安定した親切品質を世間にご提供することができたのだ。でも最近はそんな理由が親切の動機にならなくなってしまった。誰かに親切にされたいって気持ちが薄れてしまったからだと思う。親切をしなきゃいけない、という強い気持ちがなくなってしまったけど、でも親切をしたら気持ちがいいし非日常的だって意識もある。その結果私は、気分によって親切をするような人間になってしまったのだった。

大人になって、更に歳を重ねていくうちに、行動基準がどんどん曖昧になっている自分にちょっとビックリしてるよ。子供のころの私のほうがよっぽど安定して行動してた気がするな。子供のころはテストで満点を取ることもあったけど、今はどんなテストでも満点なんて取れないしね。それはテストで満点取っても褒めてくれる人がいなくなったからかもしれないけど。

きっと、自分で自分を認められるようになったからだろうな、と思った。善人のふりをしなくても、自分で自分のことを認められる。他人の評価で自分を支えなくていいって気持ちになれたから、自分の気分で親切をやるようになれたんだと思う。自分の感情に正直になった上で誰かに親切をしたくなる気持ちって、世の中の多くの人は小学校に入る前から芽生えているような気がしてならないんだけど、私は大人になってから、やっとだ。この気持ちを育てることができたら、とっさの判断で良いことをすることができる人間になるかもしれないな。車道に飛び出した子供をかばって私が犠牲になったときには、ぜひみんな喜んで欲しいな。

ヘルシーがお好みで

ラーメンはおいしいけど、食べ過ぎると健康には良くないらしい。「カロリーオフ」とか「○%オフ」ってラベルに書かれてる健康的な食べ物は、ちょっとおいしくないことが多い。健康に良いものをおいしいと感じられなくて、不健康なものをおいしいと感じてしまう。健康と欲望の方向性が違ってるなんて人類の大きな欠陥やん! と思うけど、これって単なる私の好みの問題のような気がするし、あまり大きな声では言わないようにしよう私。

そんなことを思いつつも、大人になってからの私は食の好みも少しずつ変わってきていて、洋食より和食だったり、肉より魚だったり、より健康的なものが好きになってきている。それが大人になって感覚が変わったからなのか、大人なんだから健康に気をつかわないと! という脅迫観念みたいなものに影響されて好みが変わってしまったのか、自分でもよくわかってない。体型維持に(少しは)気をつかってみたり健康診断の結果を見たりして、食べるものに気を付けてみた結果、そういうものを好きだと思うように私が変わってしまった可能性はある。何を食べても健康的であり続けられる身体だったら今でも、ステーキ大好き! 揚げ物どんとこい! って思えていたのかな。

自分が好きなものを貫こうと思い、何にも左右されないぞと誓ってみても、自分の体調には勝てないなと思ってしまうことはある。どんなに楽しみにしていた予定でも、体調が悪かったら諦めてしまう。好きなものに夢中になってるときは体調なんて全く気にしないし、そのせいで体調を悪くしてしまったりもするのに、初めから体調が悪いと好きなものが全く頭に入ってこなくなるし、好きなものを鬱陶しく思ってしまうこともある。盛り上がるのに体力を使う激しい音楽よりある程度落ち着いて聴ける音楽を好むようになってきたのも、私が無意識で体調を気づかったからかもしれないな。頭も身体の一部分であり、身体のことを管理して生きていくのが頭の大きな役割だから、身体のことを考えて自分の好みが変わってしまうのも自然なことなんだろう。

体調に左右されずに自分の好みを貫けることが、純粋な好きなんだろうなと思う。でもそうは生きていけないアマチュアな私は、なんとか好みの邪魔にならないように体調を整えて生きたいなと思うんだけど、そう思い続けることこそが自分の好みに影響してしまうんだろうなというジレンマ。せめて規則正しい生活はしていきたいと思います。自戒。