犬本番猫支度

Simple and Clean

自然な感情

朝空に浮かぶうろこ雲が少しずつ形を変えていく景色だったり、兎がわかるくらいに精密な満月が大きく輝いている夜空だったりを眺めていると、ありがたいなと心から思う。美しい景色を写真に収めるようなことができない私は、その景色を眺めながらただ、ただありがたいなと思うばかりだった。誰かが作った景色なんだったらその人に感謝したいけど、この空の景色は誰のおかげでもなかった。こんな美しいものが私の周りの人達へ平等に与えられていることも素晴らしいことだなと私は感じていた。

誰かに感謝の気持ちを伝えることは、その誰かに「これからもそれを続けてください」って伝えてしまう意味も含んでいると思うから、あまり闇雲にありがとうとは言えないなと最近の私は考えるようになっていた。感謝を伝えることは好意を伝えることに近いのかもしれなくて、そんな気持ちの集合がその人の未来の行動を左右してしまうかもしれないから、もしかすると感謝の気持ちは押し付けがましいことなのかもしれなかった。なんて思うのは自意識が強すぎるせいで、ありがとうと言われた相手は感動した私の気持ちだけを受け取っているのかもしれないけどね。そうだといいけど。

自然の美しさには、私が感動した気持ちをそのままぶつけることができるから安心する。自然と私との関係は、私からの一方的な憧れであって、だからこそ私は素直に感情を吐き出すことができる。突然雨が降ったときに苛立つことだって気兼ねなくできる。雪が降ったときに、喜んで美しい景色を楽しんでも、寒くてかなわんと家にこもって憂鬱になるのも自由だ。自然の雄大さと自分を比べて、コンプレックスを爆発させたっていい。私がどんな感情を抱いたところで自然は何も変わらないから、私たちの自然への感情は遠慮がない。自然は誰に対しても平等だから「話題がないときには天気の話をしましょう」ってノウハウが成立するんだよね。偉大だよ。

どういたしまして、とは絶対に返事してくれない相手に対する私の感謝には打算的な要素がない。この感謝の気持ちを誰かと共有したいと思うこともなくて、ただ空を見上げていたこの数分間は、私が人格を持った人間なんだってことが実感できた。自分から沸いて出た感情に、何の利益も見栄も下心もないことがわかったときの驚き。感情の原点を捕まえたような感覚がそこにはあって、私の中に私が説明できない部分があったことにホッとする。

適度なセンチメンタル

大人と子供の大きな違い、大人にあって子供にないものは、大人らしく振る舞わなければならない責任感だと思っていて、もう少し具体的にすると「平常心でいることを求められること」だと私は思う。平常心って人によって違うと思うんだけど、その人それぞれの平常心を逸脱しないようにするのが大人として求められてる振る舞いなんじゃないか。私は大人を生きていて、そう求められてるなと思う。

何か失敗をしたときとか、気分が落ち込んでいるときとかに、やさしく励ましてくれるのが大人だ。調子に乗ってしまったりキレてしまったときに、やさしくたしなめてくれるのも大人だ。感情を出すことってみっともないし落ち着かない、平常心でいるのが一番だよね、って共通認識が大人の間にはあって、その認識に皆従うことを求められている。働いているときには特に、平常心を保つことが良識ってことになっていると感じる。

働きはじめて少し経ったころ、社会人同士の会話で「仕事のストレス解消法は?」って質問が定番になってることに驚いた。「仕事があなたのストレスになっていますよね」ということがそもそも前提として成り立つんだ! ということが不健全だなと思ったし、そのストレスを与えているのは自分かもしれないのに、そんな質問が定番になるくらい交されていることが奇妙だなと思った。関係性によってはこの質問自体がストレスだよね。仕事ってストレスを相手に与える無神経さが許容される世界で、だから皆平常心を保たなきゃいけないんだ、ってことをその質問で私は実感したのだった。

あと、私が趣味を話したときに「それがあなたのストレス解消法なんだね」って趣味をストレス解消法だと言い換えられるのが腹立つ。私はストレスがなくても音楽は聴くし、アクション映画を観てストレスが解消されるって事もない。その時にストレスを忘れたとしても、原因が残っていればストレスはまた思い出すしね。「平常心で働いてストレスを溜めて、休日はそのストレス解消法をして平常心に戻る」って心から仕事を中心に置いている生活だし、ストレス溜めた自分と平常心の自分を行き来するだけって、気持ちに救いがないよなと思ってしまう。

平常心で仕事をしなきゃいけないのは仕方ないなと思うけど、相手に平常心であることを求めるのは間違っているんだ。平常心で仕事をして、それでお互いストレスを溜めないのが一番いい。平常心を保っている相手にストレスを与えてしまっていて、「あいつストレス溜まってそうだから飲みに連れて行こう」なんて、レクリエーションとしては良いことなんだろうなと思うけど、それで感情が収まっても、ストレスの原因が解消されないんだったら同じことの繰り返しになるだけだよ。

あるとき、平常心でいることに慣れて、自分の感情を反射的に平常心に戻してしまっている自分に気付いた。ある程度のストレスは受け流す心の持ちようを身に付けていたけど、それは私の感情を麻痺させていったし、このままの生活だと私自身が何も感じなくなってしまいそうだった。それってすごく嫌だなと直感的に確信してしまった私は、それから働いているときでも平常心を保ち続けることができなくなってしまった。でも、少し変な人だと思われる程度で、そんなに大きな問題はなく働き続けることができたので、私は拍子抜けしてしまったのだった。

人に不快感を与える感情があれば、好感を持ってくれる感情もある。感情を出すにしても出さないにしても、結局は相手のことを想像して相手と会話することなんだな、ってことに気付いたのはそれからもう少し先のことだ。感情を出し入れするようになる余裕ができると、やり取りの中に自分の言葉も上手く混ぜ込めるようになってきて、私は働く相手との会話がちょっと楽になった。相手にとって従順で理解しやすい人を演じる必要はないんだ。そのことは私の気持ちを少しだけ自由にしたし、それから私は「日々生きてるな」って思えるようになった。

過去を夢見ても

タイムリープはドラッグだ。過去は変えられないとわかっているから、過剰に過去に引きずられるのは意味がないしやめようと私は誓うけど、だからこそ過去を変える物語に強く憧れてしまうことがあった。過去を変えてハッピーエンドに巡り会う物語の主人公には憧れるし、晴れやかな気分にもさせられるけど、それは過去を変えられない自分の現実を思い出すまでの僅かな時間しか続かない。私の過去も変えられたらなあと願い積もっていく憧れは、私の過去を少しずつ煤けさせていった。これは昔の私の話だ。

「過去に戻って人生をやり直したいと思う?」という質問には、今の自分を否定する意味も含まれているから、私はいつも答えに迷ってしまっていた。今の自分に満足してるわけじゃないけど、自分を作ってくれたものに対して感謝する気持ちもあるから、簡単には答えが出せなかった。いやいやそんな真面目な話じゃないし、雑談だし、ってことで「高校生に戻ってやり直したい! 今度こそは上手くいくかもしれない!」なんてその場では言うんだけど、過去に戻った私はきっと今と同じ人生は辿らないだろうし、こうして話をしている相手とも出会うことは難しいんだろうなあと想像して、少し胸が痛んだ。

過去に戻って人生をやり直して掴んだ未来は、掴まなかったそれ以外の未来を捨てることでもあると思った。最愛の人を選ぶことは、出会った他の全員を裏切ることに等しい。これって残酷な判断だなと思うけれど、自分にとってだけ正しいことを実行できる力への憧れはとても強く、タイムリープに憧れる気持ちは密かに持ち続けていた。

そんな気持ちが高まったある日、タイムリープする能力に目覚める夢を見たことがあった。タイムリープする能力を手に入れた私は高校生に戻り、なんとか試行錯誤することで私が夢想していた未来に進むことができた。だけどその未来で私が掴んだ誰かもまた、別の未来を選ぶためにタイムリープする、というオチが最後に待っていて、そのショックで私は夢から覚めてしまった。自分が世界の主役になれる器じゃないことを思い知らされた夢だったけど、そのとき確かに、タイムリープして手に入れられる未来なんて所詮は夢みたいなもんだよなと私は実感したのだった。まさしく夢から覚めた瞬間だった。

過去に戻ってやり直せたとしても、その未来は私がやり直したかった世界とは別のものであるように思えた。やり直せば手に入れられるものに、きっと私は価値を見出せないだろう。今私が価値があると感じているものは、私が他の選択肢を捨ててそれを選んだからだった。だから平凡な物語の主人公である私が人生を楽しむとしたら、引き返せない選択の連続をせめて面白く選んでいくしかないのだろうなあと思っている。

誠実な悪意

何かが美しいとか、楽しいとか、可愛いとか、好きだとか、愛してるとか、そんなことを感じていたはずなのに、最終的に全てが悪意に集約されてしまう気がした。

感情は続いてくれない。私は大事なものを何も手に入れられなかったし、手に入れたものも失ってしまったし、持っているものも色褪せてしまった。感情がなくなってしまった隙間には悪意が一番に入り込んでくる。悪意ってインスタントに生み出せて、人を動かすエンジンにもなるから、自分のバランスを保つため、隙間を埋めるために悪意を育ててしまうのは自然だと思う。だけど私は悪意なんて自分の本心じゃないと思っているから、そんな気持ちは捨ててしまいたくなって、代わりの何かを探してしまう。

古いものをそのまま愛し続けられる気持ちを尊く潔いと思う。私は憧れる。私が新しいものを好きになるのは、古いものをそのまま好きになり続けられなくて、その隙間を埋めたいからかもしれなかった。でも失ってしまった気持ちを新しい何かで補おうとしてしまう、そんな生き方では何も手に入れられないような気がしてしまった。

私はここにずっと留まって、新しい何かが生まれていくのをずっと眺めている。それだけだった。メディアを賑わせる新人に拍手を送る。その新人が私より年下であることに何も感じなくなって、私は自分が空気になっていることを自覚していく。インターネットにその新人に対する持論をぶちまけたりして、それが高慢な悪意であることに気付きもしないで。平凡な人生が生み出せるのは誰かの共感しかなくて、でも平凡な共感はすぐに忘れ去られてしまう。よく知らない人の共感を得る言葉じゃなくて、私は誰かに対してのメッセージを吐き出したかったはずだった。世界を変えたいわけじゃなくて、誰かに伝えたかっただけだった。

美しさや可愛さに勝てるものなんてないことはわかっていて、そのことだけを一対一で伝え続けられたらよかったんだ。他人の気を惹きたくって生み出す悪意には中身がなくて、ただ鋭さだけが誰かを傷付けようとして、そんなつもりはなかったんですと謝る価値すらなくて、ただ不快さだけが世の中に積もっていく。価値のない言葉は淘汰されていくだろう。悪意の価値が暴落したとき、悪意が悪意とすら認識されなくなったとき、それでも残った悪意こそ誠実で、そのどうしようもなさを愛おしくも思えたりするだろう。これから会うものへの愛情も、過ぎたものへの悪意も、同じ感情として抱いて死んでいくことができたらいい。

書きたいこと、書かなくていいこと

いつの間にか、インターネットを検索して、世の中のご機嫌を伺わないと自分の意見を書けないようになってしまっていた。

自分一人の意見より、知らない百人が言葉を交して大勢となった意見の方が、誰が読んでも納得してもらえるだろうと考えるのは正しい。でも多数の意見と一致していることを確認した上で書く自分の意見なんて、何の価値があるんだろうな。無責任に書き捨てられている言葉の方がまだ価値があるように思えた。

誰かの意見を参考にすることにはきっと意味があるけど、その意見に影響されて自分の意見がなくなってしまうのなら、もう私は何も書かない方がいいなと思った。そこにはもう私の人格はないんだから。誰かの意見を目にしたことで自分の考えが止まってしまうことはあるけど、そうなったらもう私は「同意する」以外には何も言う必要はないはずだった。

納得してもらえる意見じゃなくて、自分の意見を言葉にしたいはずだったのにな。賛否両論ありそうなテーマがあったときに、自分で考える前にまず誰かの意見を確認してしまうのは思考停止だし、場の空気を読んだ上で意見を掲げて正しさを訴えようとするのは、もうゲームだよなと思う。意見の「正しさ」を競っているだけだ。ゲームならむしろ、掲げる意見が私のオリジナルじゃない方がいい。正しさを否定されてしまったときに私の心が傷つかないし、マジになっちゃってどうするのって立場でいられる。こんなくだらないことに気を回しているうちに、意見は意味を失っていく。

思考って本来ものすごく大変なことなんだ。情報を正しく把握して自分の頭で突き詰めて言葉にするのは、かなり頭を使うし時間がかかる。ただそんな苦労も誰かの意見を真似ちゃうと簡単にショートカットできてしまうから、誰かの意見を真似る誘惑に勝つことは難しい。誰かの意見を要約しながら自分の意見も混ぜ込んでみると、オリジナルの意見のように仕上げることはできてしまう。誰かの意見を正しさの隠れ蓑にしながら私の意見も主張してみると、なんだか私も正しいことを言えている気がしてくるけれど、その言葉って私にとってどれだけの価値があるのかな? って考えてしまうタイミングが後で必ず訪れる。世間から正しさが問われなくなったころに読み返してみて、これは私の言葉じゃないなと感じたのなら、もうその言葉には価値はない。

私の言葉だけで書こうとすると、自分の世界の狭さに気付く。ただ自分の世界の狭さでは書けないことは、私の言葉として書かなくていいのだった。自分のスケールで言葉を書けばいいってことに気付くのに私はとても時間がかかってしまったけど、スケールの大きさに気付けたからこそ、それを大きくする努力をするようになった。そして虚勢を張る必要のない言葉を書くのは楽しい。

スキルをコミュニケーションで売る人達

一月や二月に一回会うくらいの店員さんとの距離感こそがありがたいなと思うことがある。ある程度お互いのことは知っているけれど、むやみに相手のことを詮索しないくらいの、薄くて固い一線が引かれている関係。距離が保たれていて関係が深まることがないからこそ、私は取り繕わずに話ができたり、本音が言えたりする。面白い話をしなきゃなんて気負う必要もないし、こちらから話をしたくないなら黙っていることだってできる。

毎日のように接する相手にはどうしても気を遣ってしまうし、見栄を張ってしまうのだった。インターネットへ書き込む文章を書いてるときもそう。このブログだって誰かに読まれることを想定して書いているから、感じたことをそのまま文章にできているわけじゃない。気を遣いながら後に残る文章を書くのは好きだけど、そんな形では吐き出せない、個人的な思いの詰まったちょっと身勝手だったり赤裸々だったりする話を誰かに言いたくなってしまうことはある。思い付いたそれぞれの言葉にあった表現のやり方があるってことなんだと思う。

私のことを理解してもらって、その上で言葉をもらいたいと思うなんて、おこがましいことだなと思うことはよくある。私のことに興味ない人からの無責任な言葉に救われることこそ、コミュニケーションの面白さだなと思うことがあれば、身勝手なことを言って身勝手に否定されて、その否定を参考にすることもなく、その気持ちごとどこかに捨ててしまいたいときもある。責任を持ちたい言葉と、軽く投げ捨ててしまいたい言葉があるんだろう。強弱があってこそ、そこに特徴が生まれてくる。

一対一でお客さんにスキルを売る仕事の人が大変だなと思うのは、私みたいな客からこんなコミュニケーションを求められるからだった。無遠慮な言葉を投げかけられて傷付くことはあるだろうし、お客さんからの言葉への反応によってはそのお客さんを失ってしまう可能性だってあるから、感じたことをそのまま伝えられるわけじゃない。立場が対等じゃないからこそ、知り合いとの会話よりもコミュニケーション力が求められてしまう。

スキルを売る仕事をしてるんだから、当然スキルで評価されたいと願っているはずで、コミュニケーションを求められ、それで評価もされてしまうのは心外だろうなと思う。正当にスキルを評価されるためにコミュニケーションに気を遣う必要があるのは、働いている人は誰もが感じていることだと思うけど、誰もが感じてるってことは、ほとんどの人が無意識に要求してるってことなんだよね。(誰もが要求してるからそれを正当化できるってことじゃないけど、スキルだけで評価してほしいと思いながら、私自身がスキル以外の部分を評価してしまっているのは、単なるわがままだなと思う。私はコミュニケーションが必要な世の中に生きていて、大なり小なりの気持ちをお互いに投げ合って生きていることは認めなきゃいけない)

一対一の閉じられた関係で、相手に信頼されたからこそぶつけられてしまう気持ちはあるし、フラストレーションは溜まるだろうな。髪を手入れしてもらいながら私はスタイリストさんの心中を想像して尊敬したけれど、この尊敬をそのままぶつけても迷惑だろうな、それこそ無遠慮だなと思ってやっぱりその気持ちは伝えなかった。こういう言葉はブログの方が適切かと思って書きました。

行ったし逃げるし去ってしまう

同じ時間に起きて、同じ時間働いて、同じ時間にご飯を食べて、同じ時間に寝ても、朝すっきり起きられる日があれば、ギリギリまで布団から出られない日や、体調悪くて一日休もうかと思ってしまう日もある。同じように過ごしていても、明日の体調がわからない私の体は不安定だなあと思う。そんな冬の寝起き。

今朝玄関のドアを開けると雪がちらついていて、私の体はだまされた気分になった。もうこれ以上寒くならないと思ってたのに! それなのにスギの花粉は少しずつ飛び始めているらしく、そろそろ花粉症対策が必要とのことで。冬も春も嫌なところばかりを押し付けてきて、こんなの詐欺だ。

体調があまり良くなくて、余計なことをせずにやるべきことだけを機械的にこなして一日が過ぎてしまう。冬はすぐに夜を連れてきてくれるから、私は寄り道せずにさっさと自分の部屋に帰るし、早々に布団に潜り込んで寝ようとしてしまう。きっと明日の自分は上手くやってくれるはず。もちろん何の確証もないんだけど。

冬はそんな、ただ生きのびただけの一日が続いて、あっという間に行ったし逃げるし去ってしまう。何もしないことを許してくれる冬に私は甘えてしまって、退屈すらも思い出さないような生活を続けてしまう。その日の誰かの粗相に悪意をぶつけて社会の一員になった気になって、翌日になったらその他人事はすっかり忘れている。自分のことを何も思い出せない毎日が過ぎていく。

こんな私の退屈な自虐だって何もならないし、楽しいことを考えたいと思う。でも、ポジティブなことをやるには体力が必要で、ネガティブをぶつける方が反射的で疲れないから、ついネガティブな行動を選んでしまうんだろうな。とか客観的に思っちゃうんだよ私。冬の私の当事者意識のなさったらないわ。自虐って自分に悪意をぶつけることでもあるんだよね。きっと翌日になったらこの気持ちも忘れちゃうんだろう。

冬は春に向けての計画の時期だと思っていきたい。何も見えないし不安しか気付けない未来に、心の足跡をつけながら先に進むような時間は冬にこそふさわしいと思う。春はまだまだ先だけど、どうせ冬の時間は長くない。そうして明日の自分に期待しながら寝たら、翌朝の自分も少しは応えてくれるんじゃないかな。一歩一歩でも応えてくれたらいい。