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犬本番猫支度

Simple and Clean

好き続けていくこと

「好き」って言葉には「これからも出会えるし、そのときも変わらず好きでいさせて欲しい」という気持ちが隠れている。一期一会だと思った美しさやかわいさに対しては「好きだった」って過去形を私は使っていて、「好き」って表現とは明確に使い分けしていることにふと気付いたのだった。「好き」は進行している感情で、未来へ気持ちが続いていくように願う感じが「好き」という言葉をみずみずしくさせているように思う。過去のこととして断ち切りたい気持ちが見える「嫌い」とは、切れ味も未来への想いも対照的だ。

でも私には「好き」って言ったり言われたりするのに、疲れてしまうときがある。それは「好き」が未来を縛ってしまうからだ。

好きって言われることにも責任があって、その感情の期待に応え続けなきゃならないのは大変だ。それに、好き、好き、好きって言い続けていくことには、自分の中の感情を契約更新していくような印象があって、私が今でもまだ本当に好きって思い続けているのか、その好きに今でも満足できているのか、惰性でそう思ってしまっているだけなのか、わからなくなることがある。

好きなアーティストがアルバムを出す度に、何も考えずに買って聴き続けていたけど、ふと本当に私はこのアーティストの音楽が好きなのかなって考えが頭の中を過ぎったときから、そのアーティストの音楽を楽しめなくなったことがあった。好きって感情が自分の審美眼を曇らせているように思えて、自分が信じられなくなっていることに腹が立った。

私の記憶が全部吹き飛んでしまったら良いのに。それでもまた好きになれたら、それこそが私にとってのかけがえのない「好き」なんだろう。記憶喪失になった相手がまた自分を好きになってくれる、なんて物語に憧れるのは、好きだったって過去の気持ちに頼らなくてもまた好きになってくれたからだ。ずっと好きなことより、新しく好きになったことの方が貴重だと、きっと私たちは思っている。

でも一度好きになったら、好きであり続けるか、嫌いになるか、それでまた好きになるか、どれかしかない。新しく好きになるチャンスは一度きりしかなくて、新しく好きになったときの気持ちを取り戻すことは絶対にできない。好きであり続けていても、出会ったときの衝撃を上回ることができないのは残酷だ。いつの間にかファンになっていた、徐々に好きになっていた、ってパターンならこれからもっと好きになるかもしれないけど、その好きがいくら大きくなっても、新しく好きになったとき特有の鮮烈さを感じることはできないだろう。

私はこれからも、色々なものを新しく好きになることがあって、好きになり続けていくものもあって、でも好きになった全てのものはいつか好きじゃなくなるときが来ることを覚悟している。永遠に保証された好きなんて腐ってるし、そもそも嘘だと思っていて、そう思っているからこそ私は好きって感情をみずみずしく受け止めることができていると思う。それが記憶を喪失できない私のささやかな抵抗だ。

積読の理由

積読(買った本を読み終えず積んだままにしてること)の大きな原因は、本を読むペースより買うペースの方が速いからだけど、きっとそれだけじゃないと思う。積読している本を本屋さんで見かけて、今すぐに読みたくなってしまって困ったけど、二冊目になるから買わなかった。でも、家に帰ってその本を手に取る気にはなれなかった。なんだこれ。あのとき感じた今すぐ読みたい気持ちはどこに行ったんだ。

その本にお金を出して買うって高いハードルは越えたのに、その本を家に持ち帰ってしまうとページを開く気になれないことがある。本屋さんでたくさんの本の中からそれを発見した時には唯一無二の魅力を感じられたのに、手に入れたらその魅力を感じられなくなってしまうってそんなの、お前の性格に難ががあるんだよ浮気者って言われそうだよな。ページを開いて読み進めて、ちょっと今の私の気分に合わないなって感じて積んでしまったんならまだ理解してもらえる余地があると思うんだけど、私の場合は一ページも読まずに積んでるんだから、ちょっとおかしい。

積読の山を眺めながら「もう本の衝動買いはしない」って誓うけど、家で積まれている本より本屋さんに並んでいる本の方がどうしても魅力的に思えてしまう私。人生は短いんだし今読みたい本を読まなくてどうする、と思って、悩んで、買って、やっぱり、積むよね。一度悩んでしまった時点で買ってもどうせ積むことは内心分かっていたんじゃないかと後から思うけど、買わないと悩み続けるばっかりだし、買うしかないんだよ結局。こうして私は反省することなく、ただ積読は厚みを増していくのだった。

映画館で観る映画がありがたいなと思うのは、だいたい二時間でその作品を観終わることができるから。その場で終わるエンターテイメントって楽だよね。音楽のライブとかスポーツを観たりとか、空間と時間も買ってその中に飛び込んで楽しめるのがいい。私は自分の時間の管理が下手なんだよ。

買った本のページを開く気になれないのは、自分をその本の物語に飛び込ませていく勢いが、私の中に無くなってしまっているからかもしれないなと思った。本屋さんでページをめくって読む文章と、買った本のページをめくって読む文章は、私の中では受け取りかたが違っている。オーロラの写真を見て「素敵だな」と素直に思う気持ちと「オーロラ見に行くのって大変だろうな」と現実的に思う気持ちくらい違う。現実離れしていて魅力的だなと思った物語でも、実際にその物語に入り込んでいくためには、私の中で準備と度胸が必要なのだった。

自分を忘れて物語に没頭していくのは大変なんだよ。大人になった私は現実に気がかりなことをたくさん残してるから、物語の世界へ遠出してしまうことをついためらってしまう。一度に最後まで読み切ってしまえない物語の場合は、現実と物語の間を何度か行き来する必要があるけど、遠い世界の物語だとその往復が大変なんだよね。疲れてしまって、物語の世界に自分の気持ちを連れて行けなくなる。そんな気持ちをひっくるめて私は「今この本を読む気分じゃない」って思ってしまっているんだと思う。振り返ってみると、私の現実に近い物語の本はさっと読めたりしてるから、きっとそういうことなんだろう。

そんな風に納得してしまうと不思議なもんで、私は積読してる本が急に読みたくなってきたのだった。私が立てた仮説を否定したがる、もう一人の私の存在を感じる。なんて不器用なんだ私! と仮説を立てた私は思うけど、読みたい気持ちが蘇ってきたんならもう何だっていいよね。

共感なんて共有なんて

作品に対して未知のものを求めてしまう気持ちと、共感できる部分を求めてしまう気持ちの両方が私の中にあって、私はそれを都合良く使い分けてしまっていることにふと気付いた。共感を得て大ヒットした曲を聴いて退屈だなあと思ってしまうことがあるけど、奇抜な設定のSFの中で共感できるシーンがあると急に引き込まれて嬉しくなったりするから、私の評価軸はいい加減だなと思う。

同じように共感されるために作られた作品に共感することと、ありのままの表現に共感することが、私の中で異なっているのかもしれないな。わかりやすく解釈できるようお膳立てされたものを体験することが退屈に思えて、決まった理解を求めない表現の中で感じ取れた共感に夢中になれる、ってことなのかもしれない。ただその作品がどんな目的で作られたのかなんて私が勝手に想像してるだけだから、誰にも理解されないだろうと思いながら作られたものが大きな共感を呼んだのかもしれないし、逆だってきっとあるだろう。こんなのは作者に失礼な話だった。

好きなものを共有したい気持ちって、同じように共感できる作品を共有することが前提になっていないとおかしいよなって思うことがあった。作品を通じて自分の気持ちを誰かと共有したいんだったら、解釈の幅が狭い作品を共有するのが確実だ。それなのに私は好みが分かれそうな作品を誰かと共有して、退屈だとか興味ないとか言われてがっかりしてしまうことがあった。そんな反応は覚悟できていたはずなのに、ショックを受けてしまう私は馬鹿だなと思う。何のために私は誰かとその作品を共有したんだろう。

私はその作品を通じて自分の価値観を共有したかったんだろうか。違うな。価値観なんて突き詰めてしまうと誰とも一致しないことなんてわかっているし、誰かの価値観を確かめたいだなんて、その時の私は求めていなかった。

好きな作品への誰かの感想が自分と違っていたら、きっと私は嬉しい。私と同じようにわかってくれることなんて求めてなくて、違う解釈があったり、わからないけど面白いね、なんて言われたら作品の幅が広がったように思えて面白いだろうなと思う。好きな作品をもっと他の人に体験して欲しいと思う気持ちは、きっと私がその作品のことをもっと知りたいからなのだった。

でもそんな私の「わかりかた比べ」に付き合ってくれる人なんて世の中には多くない。自分と同じように感じて欲しがる人は多くて、私は誰かに作品を薦めるのは緊張してしまう。だから作品を受け止める側として、お互い自由に感想を交わすことを許してくれる人はありがたいなと思うのでした。身勝手な話です。

自然な感情

朝空に浮かぶうろこ雲が少しずつ形を変えていく景色だったり、兎がわかるくらいに精密な満月が大きく輝いている夜空だったりを眺めていると、ありがたいなと心から思う。美しい景色を写真に収めるようなことができない私は、その景色を眺めながらただ、ただありがたいなと思うばかりだった。誰かが作った景色なんだったらその人に感謝したいけど、この空の景色は誰のおかげでもなかった。こんな美しいものが私の周りの人達へ平等に与えられていることも素晴らしいことだなと私は感じていた。

誰かに感謝の気持ちを伝えることは、その誰かに「これからもそれを続けてください」って伝えてしまう意味も含んでいると思うから、あまり闇雲にありがとうとは言えないなと最近の私は考えるようになっていた。感謝を伝えることは好意を伝えることに近いのかもしれなくて、そんな気持ちの集合がその人の未来の行動を左右してしまうかもしれないから、もしかすると感謝の気持ちは押し付けがましいことなのかもしれなかった。なんて思うのは自意識が強すぎるせいで、ありがとうと言われた相手は感動した私の気持ちだけを受け取っているのかもしれないけどね。そうだといいけど。

自然の美しさには、私が感動した気持ちをそのままぶつけることができるから安心する。自然と私との関係は、私からの一方的な憧れであって、だからこそ私は素直に感情を吐き出すことができる。突然雨が降ったときに苛立つことだって気兼ねなくできる。雪が降ったときに、喜んで美しい景色を楽しんでも、寒くてかなわんと家にこもって憂鬱になるのも自由だ。自然の雄大さと自分を比べて、コンプレックスを爆発させたっていい。私がどんな感情を抱いたところで自然は何も変わらないから、私たちの自然への感情は遠慮がない。自然は誰に対しても平等だから「話題がないときには天気の話をしましょう」ってノウハウが成立するんだよね。偉大だよ。

どういたしまして、とは絶対に返事してくれない相手に対する私の感謝には打算的な要素がない。この感謝の気持ちを誰かと共有したいと思うこともなくて、ただ空を見上げていたこの数分間は、私が人格を持った人間なんだってことが実感できた。自分から沸いて出た感情に、何の利益も見栄も下心もないことがわかったときの驚き。感情の原点を捕まえたような感覚がそこにはあって、私の中に私が説明できない部分があったことにホッとする。

適度なセンチメンタル

大人と子供の大きな違い、大人にあって子供にないものは、大人らしく振る舞わなければならない責任感だと思っていて、もう少し具体的にすると「平常心でいることを求められること」だと私は思う。平常心って人によって違うと思うんだけど、その人それぞれの平常心を逸脱しないようにするのが大人として求められてる振る舞いなんじゃないか。私は大人を生きていて、そう求められてるなと思う。

何か失敗をしたときとか、気分が落ち込んでいるときとかに、やさしく励ましてくれるのが大人だ。調子に乗ってしまったりキレてしまったときに、やさしくたしなめてくれるのも大人だ。感情を出すことってみっともないし落ち着かない、平常心でいるのが一番だよね、って共通認識が大人の間にはあって、その認識に皆従うことを求められている。働いているときには特に、平常心を保つことが良識ってことになっていると感じる。

働きはじめて少し経ったころ、社会人同士の会話で「仕事のストレス解消法は?」って質問が定番になってることに驚いた。「仕事があなたのストレスになっていますよね」ということがそもそも前提として成り立つんだ! ということが不健全だなと思ったし、そのストレスを与えているのは自分かもしれないのに、そんな質問が定番になるくらい交されていることが奇妙だなと思った。関係性によってはこの質問自体がストレスだよね。仕事ってストレスを相手に与える無神経さが許容される世界で、だから皆平常心を保たなきゃいけないんだ、ってことをその質問で私は実感したのだった。

あと、私が趣味を話したときに「それがあなたのストレス解消法なんだね」って趣味をストレス解消法だと言い換えられるのが腹立つ。私はストレスがなくても音楽は聴くし、アクション映画を観てストレスが解消されるって事もない。その時にストレスを忘れたとしても、原因が残っていればストレスはまた思い出すしね。「平常心で働いてストレスを溜めて、休日はそのストレス解消法をして平常心に戻る」って心から仕事を中心に置いている生活だし、ストレス溜めた自分と平常心の自分を行き来するだけって、気持ちに救いがないよなと思ってしまう。

平常心で仕事をしなきゃいけないのは仕方ないなと思うけど、相手に平常心であることを求めるのは間違っているんだ。平常心で仕事をして、それでお互いストレスを溜めないのが一番いい。平常心を保っている相手にストレスを与えてしまっていて、「あいつストレス溜まってそうだから飲みに連れて行こう」なんて、レクリエーションとしては良いことなんだろうなと思うけど、それで感情が収まっても、ストレスの原因が解消されないんだったら同じことの繰り返しになるだけだよ。

あるとき、平常心でいることに慣れて、自分の感情を反射的に平常心に戻してしまっている自分に気付いた。ある程度のストレスは受け流す心の持ちようを身に付けていたけど、それは私の感情を麻痺させていったし、このままの生活だと私自身が何も感じなくなってしまいそうだった。それってすごく嫌だなと直感的に確信してしまった私は、それから働いているときでも平常心を保ち続けることができなくなってしまった。でも、少し変な人だと思われる程度で、そんなに大きな問題はなく働き続けることができたので、私は拍子抜けしてしまったのだった。

人に不快感を与える感情があれば、好感を持ってくれる感情もある。感情を出すにしても出さないにしても、結局は相手のことを想像して相手と会話することなんだな、ってことに気付いたのはそれからもう少し先のことだ。感情を出し入れするようになる余裕ができると、やり取りの中に自分の言葉も上手く混ぜ込めるようになってきて、私は働く相手との会話がちょっと楽になった。相手にとって従順で理解しやすい人を演じる必要はないんだ。そのことは私の気持ちを少しだけ自由にしたし、それから私は「日々生きてるな」って思えるようになった。

過去を夢見ても

タイムリープはドラッグだ。過去は変えられないとわかっているから、過剰に過去に引きずられるのは意味がないしやめようと私は誓うけど、だからこそ過去を変える物語に強く憧れてしまうことがあった。過去を変えてハッピーエンドに巡り会う物語の主人公には憧れるし、晴れやかな気分にもさせられるけど、それは過去を変えられない自分の現実を思い出すまでの僅かな時間しか続かない。私の過去も変えられたらなあと願い積もっていく憧れは、私の過去を少しずつ煤けさせていった。これは昔の私の話だ。

「過去に戻って人生をやり直したいと思う?」という質問には、今の自分を否定する意味も含まれているから、私はいつも答えに迷ってしまっていた。今の自分に満足してるわけじゃないけど、自分を作ってくれたものに対して感謝する気持ちもあるから、簡単には答えが出せなかった。いやいやそんな真面目な話じゃないし、雑談だし、ってことで「高校生に戻ってやり直したい! 今度こそは上手くいくかもしれない!」なんてその場では言うんだけど、過去に戻った私はきっと今と同じ人生は辿らないだろうし、こうして話をしている相手とも出会うことは難しいんだろうなあと想像して、少し胸が痛んだ。

過去に戻って人生をやり直して掴んだ未来は、掴まなかったそれ以外の未来を捨てることでもあると思った。最愛の人を選ぶことは、出会った他の全員を裏切ることに等しい。これって残酷な判断だなと思うけれど、自分にとってだけ正しいことを実行できる力への憧れはとても強く、タイムリープに憧れる気持ちは密かに持ち続けていた。

そんな気持ちが高まったある日、タイムリープする能力に目覚める夢を見たことがあった。タイムリープする能力を手に入れた私は高校生に戻り、なんとか試行錯誤することで私が夢想していた未来に進むことができた。だけどその未来で私が掴んだ誰かもまた、別の未来を選ぶためにタイムリープする、というオチが最後に待っていて、そのショックで私は夢から覚めてしまった。自分が世界の主役になれる器じゃないことを思い知らされた夢だったけど、そのとき確かに、タイムリープして手に入れられる未来なんて所詮は夢みたいなもんだよなと私は実感したのだった。まさしく夢から覚めた瞬間だった。

過去に戻ってやり直せたとしても、その未来は私がやり直したかった世界とは別のものであるように思えた。やり直せば手に入れられるものに、きっと私は価値を見出せないだろう。今私が価値があると感じているものは、私が他の選択肢を捨ててそれを選んだからだった。だから平凡な物語の主人公である私が人生を楽しむとしたら、引き返せない選択の連続をせめて面白く選んでいくしかないのだろうなあと思っている。

誠実な悪意

何かが美しいとか、楽しいとか、可愛いとか、好きだとか、愛してるとか、そんなことを感じていたはずなのに、最終的に全てが悪意に集約されてしまう気がした。

感情は続いてくれない。私は大事なものを何も手に入れられなかったし、手に入れたものも失ってしまったし、持っているものも色褪せてしまった。感情がなくなってしまった隙間には悪意が一番に入り込んでくる。悪意ってインスタントに生み出せて、人を動かすエンジンにもなるから、自分のバランスを保つため、隙間を埋めるために悪意を育ててしまうのは自然だと思う。だけど私は悪意なんて自分の本心じゃないと思っているから、そんな気持ちは捨ててしまいたくなって、代わりの何かを探してしまう。

古いものをそのまま愛し続けられる気持ちを尊く潔いと思う。私は憧れる。私が新しいものを好きになるのは、古いものをそのまま好きになり続けられなくて、その隙間を埋めたいからかもしれなかった。でも失ってしまった気持ちを新しい何かで補おうとしてしまう、そんな生き方では何も手に入れられないような気がしてしまった。

私はここにずっと留まって、新しい何かが生まれていくのをずっと眺めている。それだけだった。メディアを賑わせる新人に拍手を送る。その新人が私より年下であることに何も感じなくなって、私は自分が空気になっていることを自覚していく。インターネットにその新人に対する持論をぶちまけたりして、それが高慢な悪意であることに気付きもしないで。平凡な人生が生み出せるのは誰かの共感しかなくて、でも平凡な共感はすぐに忘れ去られてしまう。よく知らない人の共感を得る言葉じゃなくて、私は誰かに対してのメッセージを吐き出したかったはずだった。世界を変えたいわけじゃなくて、誰かに伝えたかっただけだった。

美しさや可愛さに勝てるものなんてないことはわかっていて、そのことだけを一対一で伝え続けられたらよかったんだ。他人の気を惹きたくって生み出す悪意には中身がなくて、ただ鋭さだけが誰かを傷付けようとして、そんなつもりはなかったんですと謝る価値すらなくて、ただ不快さだけが世の中に積もっていく。価値のない言葉は淘汰されていくだろう。悪意の価値が暴落したとき、悪意が悪意とすら認識されなくなったとき、それでも残った悪意こそ誠実で、そのどうしようもなさを愛おしくも思えたりするだろう。これから会うものへの愛情も、過ぎたものへの悪意も、同じ感情として抱いて死んでいくことができたらいい。