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犬本番猫支度

Simple and Clean

後悔しない生き方って生き方

後悔しない生き方に私が憧れるのは、私が何も後悔していないときだけだった。私が何かに後悔しているとき、「後悔しない生き方ができたらいいのにな」と願ったことは一度もなかった。後悔するのは自分が選んだ行動が間違っていたってわかったからで、後悔しない生き方とは自分の行動が間違ってたってこともわからない生き方のことだ。そんなのは絶対に嫌だし、そもそも私は前だけを向いて生きるってことができないだろう。

「後悔しない生き方」って言われる生き方には二通りあると思う。まず一つは、過去を振り返らない、後悔する瞬間を作らない生き方で、これは私ができないと思っている生き方のほう。私がもし過去を振り返らなかったらきっと同じ失敗を繰り返すだろうし、私は後から反省することを保険にしないと判断ができない人間だから、過去を振り返ることを禁止されてしまうともう何も判断できなくなってしまうと思う。

もう一つの生き方は、過去を振り返って、でも後悔をしないことを選ぶ生き方だ。一度は後悔するんだけど、その後悔をちゃんと処理できて後に引きずらない生き方。後悔に支配されない生き方。こんな生き方のことを、大きな意味で「後悔しない生き方」と言っている人もいて、そんな生き方なら私もやってみたいなと思うことがある。

「夫のちんぽが入らない」の作者であるこだまさんのことを素敵だなと思ったのは、後悔しないことを選ぶ生き方をされているからだった。たくさんの問題に対して後悔し続けることより、それを認めて、受け止めたり諦めることを選んだ生き方がこの「夫のちんぽが入らない」には描かれていた。私はそんなこだまさんの生き方に憧れた。

鍛えてもらえたな、とこの本を読み終わったとき、確かに感じた。小さな後悔に自分の感情を支配されてしまいそうになる私や、どんな問題も価値や責任があると思って受け止めてしまいそうになる私を、こだまさんの歩みは静かに諭してくれた。自分が判断したり、判断しなかったことによる結果は、価値がないようにみえることでも、目を背けたくなることでも、まずは認めないと始まらないんだって教えてもらうこともできた。後悔するにしても諦めるにしても、まずは認めないと何も始まらない。認めるのは自分だけでいい。認めてやっと、先に進める。どれもとても大事なことだと思った。

そして何よりも、自分の半生をこうして形にした人がいることに、私は勇気づけられたんだ。自分の過去を正当化せず、教訓めいた話にすることもなく、ただ事実と感情を書き残していくことはすごく難しいことだと私は思う。これは後悔をし続けないことを決めた人にしか書くことができない文章だと思った。尊さと切実さ。私もそんな文章を書ける黄金の魂を持つことができたらな、と思うよ。

文章の焦点

なんか嘘ばっかり書いてしまっているような気がしてならないな。

事実じゃないことを書いてしまうとブログを書く意味がないと思ってるから、そういった意味での嘘や大袈裟は書いてない。だけど、自分の考えていたことを上手く言葉にできていない、私の気持ちを正しく読み取れる文章になってない気がしてしまっていて、そんな文章に対しての違和感が、私の文章を嘘っぽく思わせている。文章を書くのが下手だから、ってことでこの話を棚に上げてしまえたら楽だ。でもどんな言葉を当てはめても正しく伝わらない気持ちはあるし、きっと文章が上手くなっても同じことに悩み続けてしまう気がする。

自分の気持ちを正確に表現することと、相手が正しく解釈できる表現をすることは、全く違うことなんだろうな。こう文章にしてみると当たり前のことのように思えるけど、私は自分の考えを表す言葉を適切に選べたら、相手が私の考えを正しく理解してくれると思ってしまっていた。普段働いてるときに、相手に正しく理解してもらえる言葉を選んで文書を作ってるからだと思う。自分の考えよりも相手が理解できる言葉を選ぶ。そもそも働いていて自分の考えが必要とされるときってそんなにないしね。だからこうしてブログで自分の気持ちを優先して言葉にしたときに、普段の文章には感じない違和感を持ってしまったんだ。

文章には焦点がある。その焦点は自分と相手のどちらかにしか合わせられない。それぞれの位置で文章の見えかたが違ってしまうから、相手に届く言葉が嘘っぽく思えてしまうのは仕方がないことなんだろう。それなら、私はどの位置に立って文章を書いたらいいんだろう。相手にどう受け取られるかはわからないけど自分の気持ちを正確に表現しようとするのか、自分の気持ちをシンプルに表現することで相手が受け取りやすい内容にするのか。私はどちらかを選ばなきゃいけない。

そりゃ自分が書きたくて書いてるんだから、自分の気持ちを表現することが一番だよね。まずそう思うけど、私はたくさんの人に文章を読んで欲しいとも思ってるから、相手のことを考えずに文章を書くことはできなかった。

自分の心の中を焦点にしつつ、あらゆる言葉を組み合わせて投射することで、相手の心の中にどんな像を結んでもらえるか、これが理想かな。像を感じてもらうためには文章から放たれる光に強弱や色彩が必要だ。それは私にとって当たり前のことを繊細にわかりやすく文章にするってことなんだろう。

そんな文章が書けたら、きっと美しい文章って言ってもらえるんだろうなあ。月のように。

好きを表すこと

作品やアーティストのことを好きな気持ちを誰かと競う必要なんてない。私の中でそれを好きな気持ちを認めることができたらいい。それはわかってるんだけど。

子供のころ、好きだって気持ちを誰にも伝えたくない作品やアーティストがあった。それは好きなものを独占していたいって気持ちだったり、それが好きだって思える自分の感性が特別なんだって感じたい気持ちがあったからだと思う。

私の社会が広がり、私と同じものが好きな誰かが近くにいるって知ったときに私が感じたのは、大きな共感と小さな嫉妬の両方だった。私はその誰かに「私もそれ好きなんだ」って言いながら、「私のほうがそれ好きなんだ」って言いたい気持ちを隠した。同士がいたことにお互い盛り上がりながら私は、どれだけ私がそれを好きなのかを誰かに伝えたけど、私は無自覚に「絶対私の方がそれを好きな気持ちは大きいはずだ」って考えていた。

でも誰かと好きな気持ちを競っても、わかりやすい勝ち負けなんて出るわけがなかった。まだ人気の無いころから好きだった、初回限定版の商品を持っている、何回ライブ行った、そんな指標は比較しやすいけど、私の気持ちはそんなことで説明できるようなものなんだっけ? って思ってしまう。比較しようと試行錯誤すればするほど、自分が感じていた好きって気持ちとはかけ離れてしまうように思えた。

好きって気持ちは個人的なものであるはずなのに、それを共有して私の好きな気持ちを誰かにわかって欲しいと考えてしまうのは矛盾だなと思う。好きって感情には、愛情だったり共感だったり自己表現だったり、私の心が生み出した様々なものが含まれているんだけど、私はそれを全部「好き」にまとめてしまって、その好きって感情のかたまりを便利に使い回してしまっていた。だから気持ちと矛盾するような表現をしてしまうことがあったんだろう。

大人になって、好きって気持ちをコントロールできるようになった私は、その場に応じて都合良く好きな気持ちを使い分けるようになった。それは私の本心を簡単に誰かにさらけ出さないようになったってことでもあり、他人にはまずマニュアル的な対応を取るようになっていた。大人になってから友達ができなくなるって、こういうことからなんだろうなあと思う。子供のころの気持ちを取り戻したいなと思うことはあるけど、今更自分の感情に不器用にもなれないな。

好きって気持ちをもっと言葉にすべきなんだろうな。今は思う。誰かの気持ちと比較するためじゃなくて、誰かに伝えたいと思った、形にしなきゃと思った好きという気持ちを、もっと忠実に表現できたらなと私は思っている。そんな表現が生み出せたら、きっとそれは作品になって私はきっとアーティストになれるんだろうけど、そんな器じゃないことを自覚してる私は、ただひたすら文章を書き続けることにしたのでした。

嘘と片思い

誰かが私についた嘘からこのブログは始まったんで、嘘についてブログを書いてしまったら、もう何も書く気にならなくなってしまってこのブログは終わってしまうかもしれない。でもそろそろ向き合って、嘘について書かなくちゃいけないと思うから、書くことにした。

世の中には嘘をついても平気な人がいるらしいけど、たいていの人は嘘をつくことに抵抗があるから、必要になったときにだけ嘘をつくようにしていると思う。一から十まで嘘をつくより本当のことの中に嘘を混ぜるほうが話を信じてもらいやすいから、どうしても嘘をつかなきゃいけないところだけに嘘をつく。それが嘘をつくときの常識だと思っていた。でも誰かが私についた嘘は違った。それは不必要に大きな嘘だったし、嘘がばれてしまうことを恐れていなかった。

私がその嘘に気付けたのは偶然だったんだけど、嘘だとわかったとき、私は心の中で叫んだ。こんな嘘、いつか絶対にばれるやん! その誰かとは知り合ってまだ短くて、お互いのことをあまり知らなかったんだけど、もしその誰かと私がもっと仲良くなったら絶対にばれる嘘だった。それに知られたくないことを嘘で隠すにしては、その嘘の内容は突拍子もなくて、その大胆さのせいでばれてしまう可能性だってあった。海岸に向かってアクセルを全開で踏んでいくような、何の計画性もない嘘だった。

でも私は偶然が訪れるそのときまで、その嘘をずっと信じていた。その嘘には姑息さや巧妙さがなくて「子供みたいな嘘だな」と後から思ったけど、大人になってもそんな子供みたいな嘘をつける人を、私は他に知らなかった。だから私は信じてしまったんだ。どんなに浅はかだな人だって嘘をつくときには慎重になるもんだし、普段から嘘をつく人の嘘は、あまり人を傷付けないようにあえて薄っぺらく仕立てられている。そんな計算された嘘しか理解できなかった私は、その誰かの嘘を「面白いな」と思ってしまった。自分が騙されていたのに、そのことを忘れるくらいその嘘に興味を持ってしまって、嘘をついたその誰かに興味を持ってしまって、だから私は嘘をついた誰かを怒る気になれなかった。

嘘は人間の内面が投影されるものなのかもしれないね。嘘なんかつかないほうがいいし、嘘に逃げないことが一番の度胸だと思うよ。嘘なんかつかないで欲しかった。それは間違いないんだけど、どうしても嘘をつく必要があるとき、ついてしまう嘘の内容には人となりが出る。嘘の大小が人間の器の大小だとは思わないし、どんな嘘が理想ってこともないけどね。でもその誰かがついた嘘は小心者の私には絶対につけない嘘だったから、私はその嘘に憧れてしまった。それはきっと誰かに対して私が密かに抱いていた憧れなんだろうな。

その誰かとは友達になれなくて、今では疎遠になってしまった。だからその誰かの言ったことがどこまで嘘だったのか、実はわかってないんだよね。憧れと謎を私の中に残して誰かは消えてしまった。その誰かにどうしても私の言葉を届けたくなってしまって、私はこんなブログを書き続けているよ。

嘘だけどね。

好き続けていくこと

「好き」って言葉には「これからも出会えるし、そのときも変わらず好きでいさせて欲しい」という気持ちが隠れている。一期一会だと思った美しさやかわいさに対しては「好きだった」って過去形を私は使っていて、「好き」って表現とは明確に使い分けしていることにふと気付いたのだった。「好き」は進行している感情で、未来へ気持ちが続いていくように願う感じが「好き」という言葉をみずみずしくさせているように思う。過去のこととして断ち切りたい気持ちが見える「嫌い」とは、切れ味も未来への想いも対照的だ。

でも私には「好き」って言ったり言われたりするのに、疲れてしまうときがある。それは「好き」が未来を縛ってしまうからだ。

好きって言われることにも責任があって、その感情の期待に応え続けなきゃならないのは大変だ。それに、好き、好き、好きって言い続けていくことには、自分の中の感情を契約更新していくような印象があって、私が今でもまだ本当に好きって思い続けているのか、その好きに今でも満足できているのか、惰性でそう思ってしまっているだけなのか、わからなくなることがある。

好きなアーティストがアルバムを出す度に、何も考えずに買って聴き続けていたけど、ふと本当に私はこのアーティストの音楽が好きなのかなって考えが頭の中を過ぎったときから、そのアーティストの音楽を楽しめなくなったことがあった。好きって感情が自分の審美眼を曇らせているように思えて、自分が信じられなくなっていることに腹が立った。

私の記憶が全部吹き飛んでしまったら良いのに。それでもまた好きになれたら、それこそが私にとってのかけがえのない「好き」なんだろう。記憶喪失になった相手がまた自分を好きになってくれる、なんて物語に憧れるのは、好きだったって過去の気持ちに頼らなくてもまた好きになってくれたからだ。ずっと好きなことより、新しく好きになったことの方が貴重だと、きっと私たちは思っている。

でも一度好きになったら、好きであり続けるか、嫌いになるか、それでまた好きになるか、どれかしかない。新しく好きになるチャンスは一度きりしかなくて、新しく好きになったときの気持ちを取り戻すことは絶対にできない。好きであり続けていても、出会ったときの衝撃を上回ることができないのは残酷だ。いつの間にかファンになっていた、徐々に好きになっていた、ってパターンならこれからもっと好きになるかもしれないけど、その好きがいくら大きくなっても、新しく好きになったとき特有の鮮烈さを感じることはできないだろう。

私はこれからも、色々なものを新しく好きになることがあって、好きになり続けていくものもあって、でも好きになった全てのものはいつか好きじゃなくなるときが来ることを覚悟している。永遠に保証された好きなんて腐ってるし、そもそも嘘だと思っていて、そう思っているからこそ私は好きって感情をみずみずしく受け止めることができていると思う。それが記憶を喪失できない私のささやかな抵抗だ。

積読の理由

積読(買った本を読み終えず積んだままにしてること)の大きな原因は、本を読むペースより買うペースの方が速いからだけど、きっとそれだけじゃないと思う。積読している本を本屋さんで見かけて、今すぐに読みたくなってしまって困ったけど、二冊目になるから買わなかった。でも、家に帰ってその本を手に取る気にはなれなかった。なんだこれ。あのとき感じた今すぐ読みたい気持ちはどこに行ったんだ。

その本にお金を出して買うって高いハードルは越えたのに、その本を家に持ち帰ってしまうとページを開く気になれないことがある。本屋さんでたくさんの本の中からそれを発見した時には唯一無二の魅力を感じられたのに、手に入れたらその魅力を感じられなくなってしまうってそんなの、お前の性格に難ががあるんだよ浮気者って言われそうだよな。ページを開いて読み進めて、ちょっと今の私の気分に合わないなって感じて積んでしまったんならまだ理解してもらえる余地があると思うんだけど、私の場合は一ページも読まずに積んでるんだから、ちょっとおかしい。

積読の山を眺めながら「もう本の衝動買いはしない」って誓うけど、家で積まれている本より本屋さんに並んでいる本の方がどうしても魅力的に思えてしまう私。人生は短いんだし今読みたい本を読まなくてどうする、と思って、悩んで、買って、やっぱり、積むよね。一度悩んでしまった時点で買ってもどうせ積むことは内心分かっていたんじゃないかと後から思うけど、買わないと悩み続けるばっかりだし、買うしかないんだよ結局。こうして私は反省することなく、ただ積読は厚みを増していくのだった。

映画館で観る映画がありがたいなと思うのは、だいたい二時間でその作品を観終わることができるから。その場で終わるエンターテイメントって楽だよね。音楽のライブとかスポーツを観たりとか、空間と時間も買ってその中に飛び込んで楽しめるのがいい。私は自分の時間の管理が下手なんだよ。

買った本のページを開く気になれないのは、自分をその本の物語に飛び込ませていく勢いが、私の中に無くなってしまっているからかもしれないなと思った。本屋さんでページをめくって読む文章と、買った本のページをめくって読む文章は、私の中では受け取りかたが違っている。オーロラの写真を見て「素敵だな」と素直に思う気持ちと「オーロラ見に行くのって大変だろうな」と現実的に思う気持ちくらい違う。現実離れしていて魅力的だなと思った物語でも、実際にその物語に入り込んでいくためには、私の中で準備と度胸が必要なのだった。

自分を忘れて物語に没頭していくのは大変なんだよ。大人になった私は現実に気がかりなことをたくさん残してるから、物語の世界へ遠出してしまうことをついためらってしまう。一度に最後まで読み切ってしまえない物語の場合は、現実と物語の間を何度か行き来する必要があるけど、遠い世界の物語だとその往復が大変なんだよね。疲れてしまって、物語の世界に自分の気持ちを連れて行けなくなる。そんな気持ちをひっくるめて私は「今この本を読む気分じゃない」って思ってしまっているんだと思う。振り返ってみると、私の現実に近い物語の本はさっと読めたりしてるから、きっとそういうことなんだろう。

そんな風に納得してしまうと不思議なもんで、私は積読してる本が急に読みたくなってきたのだった。私が立てた仮説を否定したがる、もう一人の私の存在を感じる。なんて不器用なんだ私! と仮説を立てた私は思うけど、読みたい気持ちが蘇ってきたんならもう何だっていいよね。

共感なんて共有なんて

作品に対して未知のものを求めてしまう気持ちと、共感できる部分を求めてしまう気持ちの両方が私の中にあって、私はそれを都合良く使い分けてしまっていることにふと気付いた。共感を得て大ヒットした曲を聴いて退屈だなあと思ってしまうことがあるけど、奇抜な設定のSFの中で共感できるシーンがあると急に引き込まれて嬉しくなったりするから、私の評価軸はいい加減だなと思う。

同じように共感されるために作られた作品に共感することと、ありのままの表現に共感することが、私の中で異なっているのかもしれないな。わかりやすく解釈できるようお膳立てされたものを体験することが退屈に思えて、決まった理解を求めない表現の中で感じ取れた共感に夢中になれる、ってことなのかもしれない。ただその作品がどんな目的で作られたのかなんて私が勝手に想像してるだけだから、誰にも理解されないだろうと思いながら作られたものが大きな共感を呼んだのかもしれないし、逆だってきっとあるだろう。こんなのは作者に失礼な話だった。

好きなものを共有したい気持ちって、同じように共感できる作品を共有することが前提になっていないとおかしいよなって思うことがあった。作品を通じて自分の気持ちを誰かと共有したいんだったら、解釈の幅が狭い作品を共有するのが確実だ。それなのに私は好みが分かれそうな作品を誰かと共有して、退屈だとか興味ないとか言われてがっかりしてしまうことがあった。そんな反応は覚悟できていたはずなのに、ショックを受けてしまう私は馬鹿だなと思う。何のために私は誰かとその作品を共有したんだろう。

私はその作品を通じて自分の価値観を共有したかったんだろうか。違うな。価値観なんて突き詰めてしまうと誰とも一致しないことなんてわかっているし、誰かの価値観を確かめたいだなんて、その時の私は求めていなかった。

好きな作品への誰かの感想が自分と違っていたら、きっと私は嬉しい。私と同じようにわかってくれることなんて求めてなくて、違う解釈があったり、わからないけど面白いね、なんて言われたら作品の幅が広がったように思えて面白いだろうなと思う。好きな作品をもっと他の人に体験して欲しいと思う気持ちは、きっと私がその作品のことをもっと知りたいからなのだった。

でもそんな私の「わかりかた比べ」に付き合ってくれる人なんて世の中には多くない。自分と同じように感じて欲しがる人は多くて、私は誰かに作品を薦めるのは緊張してしまう。だから作品を受け止める側として、お互い自由に感想を交わすことを許してくれる人はありがたいなと思うのでした。身勝手な話です。