犬本番猫支度

Simple and Clean

ヘルシーがお好みで

ラーメンはおいしいけど、食べ過ぎると健康には良くないらしい。「カロリーオフ」とか「○%オフ」ってラベルに書かれてる健康的な食べ物は、ちょっとおいしくないことが多い。健康に良いものをおいしいと感じられなくて、不健康なものをおいしいと感じてしまう。健康と欲望の方向性が違ってるなんて人類の大きな欠陥やん! と思うけど、これって単なる私の好みの問題のような気がするし、あまり大きな声では言わないようにしよう私。

そんなことを思いつつも、大人になってからの私は食の好みも少しずつ変わってきていて、洋食より和食だったり、肉より魚だったり、より健康的なものが好きになってきている。それが大人になって感覚が変わったからなのか、大人なんだから健康に気をつかわないと! という脅迫観念みたいなものに影響されて好みが変わってしまったのか、自分でもよくわかってない。体型維持に(少しは)気をつかってみたり健康診断の結果を見たりして、食べるものに気を付けてみた結果、そういうものを好きだと思うように私が変わってしまった可能性はある。何を食べても健康的であり続けられる身体だったら今でも、ステーキ大好き! 揚げ物どんとこい! って思えていたのかな。

自分が好きなものを貫こうと思い、何にも左右されないぞと誓ってみても、自分の体調には勝てないなと思ってしまうことはある。どんなに楽しみにしていた予定でも、体調が悪かったら諦めてしまう。好きなものに夢中になってるときは体調なんて全く気にしないし、そのせいで体調を悪くしてしまったりもするのに、初めから体調が悪いと好きなものが全く頭に入ってこなくなるし、好きなものを鬱陶しく思ってしまうこともある。盛り上がるのに体力を使う激しい音楽よりある程度落ち着いて聴ける音楽を好むようになってきたのも、私が無意識で体調を気づかったからかもしれないな。頭も身体の一部分であり、身体のことを管理して生きていくのが頭の大きな役割だから、身体のことを考えて自分の好みが変わってしまうのも自然なことなんだろう。

体調に左右されずに自分の好みを貫けることが、純粋な好きなんだろうなと思う。でもそうは生きていけないアマチュアな私は、なんとか好みの邪魔にならないように体調を整えて生きたいなと思うんだけど、そう思い続けることこそが自分の好みに影響してしまうんだろうなというジレンマ。せめて規則正しい生活はしていきたいと思います。自戒。

過去を繋げる音楽

久し振りに表舞台に立ったアーティストを見ると、以前に活躍していたころの思い出を語り出さずにはいられないのが人間なんだろうな。みな口々に当時の思い出を語っているし、私もそのアーティストを見て思い出すことはいろいろあるけれど、その思い出のそれぞれが違っていることが、なんだか面白いなと思った。

今の私たちはネットで簡単に情報をやりとりできるから、このアーティストが今流行ってるとか、名曲が出た! ライブで感動した! とか、簡単に感じたことを共有することができる。同じ時間を共有しているよう、同じ世界に生きているように思える。同じニュースを見て一喜一憂して、そんな声がまとまってムードが作られていく日々。そんなことに慣れていると、昔からずっと私はこのネットの向こうの人たちと同じ世界を生きてきたように思ってしまうけど、昔の思い出を語り合ってみると全然違う内容だったりしてしまうから、私はちょっと驚いてしまったのだった。

アーティストが活躍していたそのころ、アーティストが大人気だった世界も、そうでなかった世界も、どっちもあったんだろうな。どちらも正しい。お互いの世界がお互いのことを知らなくて、それぞれの世界でそれぞれのムードが作られていた時代があったんだ。私はそのアーティストが活躍していたころの情景を思い出してみるけど、私はただ生活の一部としてそのアーティストの音楽を聴いていて、人気があるかどうかはあまり気にしていなかったな。子供のころ、まだネットが普及してなかったころ、私はそうやって音楽を感じていたんだった。

神戸に住んでいた子供の私は、東京を遠い世界のことだと思っていて、東京で流行っているものを雑誌で覚えて、遅れて体験していた。音楽雑誌は本屋さんにたくさん並んでいたけど、どの雑誌に私の好きなアーティストの記事が載ってるかなんてわからなかったし、雑誌に載ってるどの新しいアーティストが自分の好みなのかもわからなかった。雑誌にあった作品名をメモしてレンタルショップを訪れて、偶然その店に置かれていたCDだけを体験した。雑誌を読んで友達が買ったCDがすごく良くて、私もそのアーティストを好きになったりした。そんな風にして断片的に体験できたその東京は、きっと私だけの「東京」だったんだろうな。

過去に活躍していたアーティストのことを誰かが語るとき、私と違う過去がその誰かの中にあることがわかる。誰かも私もお互い他人で、当時別々の場所で生きていて、同じ時間の中で別の生活をしていたことがわかる。でもそれぞれの生活の中で同じアーティストを聴いていたって事実が、そのお互いの生活の接点になって、私はその誰かの過去を何よりも身近に感じることができる。ある音楽が生活に密着していたころがあって、音楽への思い出で私たちを繋げられる時代があったんだ。これこそが音楽の力だなと思う。多くの人が同じ作品を体験しているって現象は音楽に限らないことなのかもしれないけど、好きとか嫌いとか興味ないとかどう受け止めるか関係なく、ただ生活にその作品が存在することは、音楽だけができることだ。それこそが魔法的だなって、思うよ。

後悔しない生き方って生き方

後悔しない生き方に私が憧れるのは、私が何も後悔していないときだけだった。私が何かに後悔しているとき、「後悔しない生き方ができたらいいのにな」と願ったことは一度もなかった。後悔するのは自分が選んだ行動が間違っていたってわかったからで、後悔しない生き方とは自分の行動が間違ってたってこともわからない生き方のことだ。そんなのは絶対に嫌だし、そもそも私は前だけを向いて生きるってことができないだろう。

「後悔しない生き方」って言われる生き方には二通りあると思う。まず一つは、過去を振り返らない、後悔する瞬間を作らない生き方で、これは私ができないと思っている生き方のほう。私がもし過去を振り返らなかったらきっと同じ失敗を繰り返すだろうし、私は後から反省することを保険にしないと判断ができない人間だから、過去を振り返ることを禁止されてしまうともう何も判断できなくなってしまうと思う。

もう一つの生き方は、過去を振り返って、でも後悔をしないことを選ぶ生き方だ。一度は後悔するんだけど、その後悔をちゃんと処理できて後に引きずらない生き方。後悔に支配されない生き方。こんな生き方のことを、大きな意味で「後悔しない生き方」と言っている人もいて、そんな生き方なら私もやってみたいなと思うことがある。

「夫のちんぽが入らない」の作者であるこだまさんのことを素敵だなと思ったのは、後悔しないことを選ぶ生き方をされているからだった。たくさんの問題に対して後悔し続けることより、それを認めて、受け止めたり諦めることを選んだ生き方がこの「夫のちんぽが入らない」には描かれていた。私はそんなこだまさんの生き方に憧れた。

鍛えてもらえたな、とこの本を読み終わったとき、確かに感じた。小さな後悔に自分の感情を支配されてしまいそうになる私や、どんな問題も価値や責任があると思って受け止めてしまいそうになる私を、こだまさんの歩みは静かに諭してくれた。自分が判断したり、判断しなかったことによる結果は、価値がないようにみえることでも、目を背けたくなることでも、まずは認めないと始まらないんだって教えてもらうこともできた。後悔するにしても諦めるにしても、まずは認めないと何も始まらない。認めるのは自分だけでいい。認めてやっと、先に進める。どれもとても大事なことだと思った。

そして何よりも、自分の半生をこうして形にした人がいることに、私は勇気づけられたんだ。自分の過去を正当化せず、教訓めいた話にすることもなく、ただ事実と感情を書き残していくことはすごく難しいことだと私は思う。これは後悔をし続けないことを決めた人にしか書くことができない文章だと思った。尊さと切実さ。私もそんな文章を書ける黄金の魂を持つことができたらな、と思うよ。

文章の焦点

なんか嘘ばっかり書いてしまっているような気がしてならないな。

事実じゃないことを書いてしまうとブログを書く意味がないと思ってるから、そういった意味での嘘や大袈裟は書いてない。だけど、自分の考えていたことを上手く言葉にできていない、私の気持ちを正しく読み取れる文章になってない気がしてしまっていて、そんな文章に対しての違和感が、私の文章を嘘っぽく思わせている。文章を書くのが下手だから、ってことでこの話を棚に上げてしまえたら楽だ。でもどんな言葉を当てはめても正しく伝わらない気持ちはあるし、きっと文章が上手くなっても同じことに悩み続けてしまう気がする。

自分の気持ちを正確に表現することと、相手が正しく解釈できる表現をすることは、全く違うことなんだろうな。こう文章にしてみると当たり前のことのように思えるけど、私は自分の考えを表す言葉を適切に選べたら、相手が私の考えを正しく理解してくれると思ってしまっていた。普段働いてるときに、相手に正しく理解してもらえる言葉を選んで文書を作ってるからだと思う。自分の考えよりも相手が理解できる言葉を選ぶ。そもそも働いていて自分の考えが必要とされるときってそんなにないしね。だからこうしてブログで自分の気持ちを優先して言葉にしたときに、普段の文章には感じない違和感を持ってしまったんだ。

文章には焦点がある。その焦点は自分と相手のどちらかにしか合わせられない。それぞれの位置で文章の見えかたが違ってしまうから、相手に届く言葉が嘘っぽく思えてしまうのは仕方がないことなんだろう。それなら、私はどの位置に立って文章を書いたらいいんだろう。相手にどう受け取られるかはわからないけど自分の気持ちを正確に表現しようとするのか、自分の気持ちをシンプルに表現することで相手が受け取りやすい内容にするのか。私はどちらかを選ばなきゃいけない。

そりゃ自分が書きたくて書いてるんだから、自分の気持ちを表現することが一番だよね。まずそう思うけど、私はたくさんの人に文章を読んで欲しいとも思ってるから、相手のことを考えずに文章を書くことはできなかった。

自分の心の中を焦点にしつつ、あらゆる言葉を組み合わせて投射することで、相手の心の中にどんな像を結んでもらえるか、これが理想かな。像を感じてもらうためには文章から放たれる光に強弱や色彩が必要だ。それは私にとって当たり前のことを繊細にわかりやすく文章にするってことなんだろう。

そんな文章が書けたら、きっと美しい文章って言ってもらえるんだろうなあ。月のように。

好きを表すこと

作品やアーティストのことを好きな気持ちを誰かと競う必要なんてない。私の中でそれを好きな気持ちを認めることができたらいい。それはわかってるんだけど。

子供のころ、好きだって気持ちを誰にも伝えたくない作品やアーティストがあった。それは好きなものを独占していたいって気持ちだったり、それが好きだって思える自分の感性が特別なんだって感じたい気持ちがあったからだと思う。

私の社会が広がり、私と同じものが好きな誰かが近くにいるって知ったときに私が感じたのは、大きな共感と小さな嫉妬の両方だった。私はその誰かに「私もそれ好きなんだ」って言いながら、「私のほうがそれ好きなんだ」って言いたい気持ちを隠した。同士がいたことにお互い盛り上がりながら私は、どれだけ私がそれを好きなのかを誰かに伝えたけど、私は無自覚に「絶対私の方がそれを好きな気持ちは大きいはずだ」って考えていた。

でも誰かと好きな気持ちを競っても、わかりやすい勝ち負けなんて出るわけがなかった。まだ人気の無いころから好きだった、初回限定版の商品を持っている、何回ライブ行った、そんな指標は比較しやすいけど、私の気持ちはそんなことで説明できるようなものなんだっけ? って思ってしまう。比較しようと試行錯誤すればするほど、自分が感じていた好きって気持ちとはかけ離れてしまうように思えた。

好きって気持ちは個人的なものであるはずなのに、それを共有して私の好きな気持ちを誰かにわかって欲しいと考えてしまうのは矛盾だなと思う。好きって感情には、愛情だったり共感だったり自己表現だったり、私の心が生み出した様々なものが含まれているんだけど、私はそれを全部「好き」にまとめてしまって、その好きって感情のかたまりを便利に使い回してしまっていた。だから気持ちと矛盾するような表現をしてしまうことがあったんだろう。

大人になって、好きって気持ちをコントロールできるようになった私は、その場に応じて都合良く好きな気持ちを使い分けるようになった。それは私の本心を簡単に誰かにさらけ出さないようになったってことでもあり、他人にはまずマニュアル的な対応を取るようになっていた。大人になってから友達ができなくなるって、こういうことからなんだろうなあと思う。子供のころの気持ちを取り戻したいなと思うことはあるけど、今更自分の感情に不器用にもなれないな。

好きって気持ちをもっと言葉にすべきなんだろうな。今は思う。誰かの気持ちと比較するためじゃなくて、誰かに伝えたいと思った、形にしなきゃと思った好きという気持ちを、もっと忠実に表現できたらなと私は思っている。そんな表現が生み出せたら、きっとそれは作品になって私はきっとアーティストになれるんだろうけど、そんな器じゃないことを自覚してる私は、ただひたすら文章を書き続けることにしたのでした。

嘘と片思い

誰かが私についた嘘からこのブログは始まったんで、嘘についてブログを書いてしまったら、もう何も書く気にならなくなってしまってこのブログは終わってしまうかもしれない。でもそろそろ向き合って、嘘について書かなくちゃいけないと思うから、書くことにした。

世の中には嘘をついても平気な人がいるらしいけど、たいていの人は嘘をつくことに抵抗があるから、必要になったときにだけ嘘をつくようにしていると思う。一から十まで嘘をつくより本当のことの中に嘘を混ぜるほうが話を信じてもらいやすいから、どうしても嘘をつかなきゃいけないところだけに嘘をつく。それが嘘をつくときの常識だと思っていた。でも誰かが私についた嘘は違った。それは不必要に大きな嘘だったし、嘘がばれてしまうことを恐れていなかった。

私がその嘘に気付けたのは偶然だったんだけど、嘘だとわかったとき、私は心の中で叫んだ。こんな嘘、いつか絶対にばれるやん! その誰かとは知り合ってまだ短くて、お互いのことをあまり知らなかったんだけど、もしその誰かと私がもっと仲良くなったら絶対にばれる嘘だった。それに知られたくないことを嘘で隠すにしては、その嘘の内容は突拍子もなくて、その大胆さのせいでばれてしまう可能性だってあった。海岸に向かってアクセルを全開で踏んでいくような、何の計画性もない嘘だった。

でも私は偶然が訪れるそのときまで、その嘘をずっと信じていた。その嘘には姑息さや巧妙さがなくて「子供みたいな嘘だな」と後から思ったけど、大人になってもそんな子供みたいな嘘をつける人を、私は他に知らなかった。だから私は信じてしまったんだ。どんなに浅はかだな人だって嘘をつくときには慎重になるもんだし、普段から嘘をつく人の嘘は、あまり人を傷付けないようにあえて薄っぺらく仕立てられている。そんな計算された嘘しか理解できなかった私は、その誰かの嘘を「面白いな」と思ってしまった。自分が騙されていたのに、そのことを忘れるくらいその嘘に興味を持ってしまって、嘘をついたその誰かに興味を持ってしまって、だから私は嘘をついた誰かを怒る気になれなかった。

嘘は人間の内面が投影されるものなのかもしれないね。嘘なんかつかないほうがいいし、嘘に逃げないことが一番の度胸だと思うよ。嘘なんかつかないで欲しかった。それは間違いないんだけど、どうしても嘘をつく必要があるとき、ついてしまう嘘の内容には人となりが出る。嘘の大小が人間の器の大小だとは思わないし、どんな嘘が理想ってこともないけどね。でもその誰かがついた嘘は小心者の私には絶対につけない嘘だったから、私はその嘘に憧れてしまった。それはきっと誰かに対して私が密かに抱いていた憧れなんだろうな。

その誰かとは友達になれなくて、今では疎遠になってしまった。だからその誰かの言ったことがどこまで嘘だったのか、実はわかってないんだよね。憧れと謎を私の中に残して誰かは消えてしまった。その誰かにどうしても私の言葉を届けたくなってしまって、私はこんなブログを書き続けているよ。

嘘だけどね。

好き続けていくこと

「好き」って言葉には「これからも出会えるし、そのときも変わらず好きでいさせて欲しい」という気持ちが隠れている。一期一会だと思った美しさやかわいさに対しては「好きだった」って過去形を私は使っていて、「好き」って表現とは明確に使い分けしていることにふと気付いたのだった。「好き」は進行している感情で、未来へ気持ちが続いていくように願う感じが「好き」という言葉をみずみずしくさせているように思う。過去のこととして断ち切りたい気持ちが見える「嫌い」とは、切れ味も未来への想いも対照的だ。

でも私には「好き」って言ったり言われたりするのに、疲れてしまうときがある。それは「好き」が未来を縛ってしまうからだ。

好きって言われることにも責任があって、その感情の期待に応え続けなきゃならないのは大変だ。それに、好き、好き、好きって言い続けていくことには、自分の中の感情を契約更新していくような印象があって、私が今でもまだ本当に好きって思い続けているのか、その好きに今でも満足できているのか、惰性でそう思ってしまっているだけなのか、わからなくなることがある。

好きなアーティストがアルバムを出す度に、何も考えずに買って聴き続けていたけど、ふと本当に私はこのアーティストの音楽が好きなのかなって考えが頭の中を過ぎったときから、そのアーティストの音楽を楽しめなくなったことがあった。好きって感情が自分の審美眼を曇らせているように思えて、自分が信じられなくなっていることに腹が立った。

私の記憶が全部吹き飛んでしまったら良いのに。それでもまた好きになれたら、それこそが私にとってのかけがえのない「好き」なんだろう。記憶喪失になった相手がまた自分を好きになってくれる、なんて物語に憧れるのは、好きだったって過去の気持ちに頼らなくてもまた好きになってくれたからだ。ずっと好きなことより、新しく好きになったことの方が貴重だと、きっと私たちは思っている。

でも一度好きになったら、好きであり続けるか、嫌いになるか、それでまた好きになるか、どれかしかない。新しく好きになるチャンスは一度きりしかなくて、新しく好きになったときの気持ちを取り戻すことは絶対にできない。好きであり続けていても、出会ったときの衝撃を上回ることができないのは残酷だ。いつの間にかファンになっていた、徐々に好きになっていた、ってパターンならこれからもっと好きになるかもしれないけど、その好きがいくら大きくなっても、新しく好きになったとき特有の鮮烈さを感じることはできないだろう。

私はこれからも、色々なものを新しく好きになることがあって、好きになり続けていくものもあって、でも好きになった全てのものはいつか好きじゃなくなるときが来ることを覚悟している。永遠に保証された好きなんて腐ってるし、そもそも嘘だと思っていて、そう思っているからこそ私は好きって感情をみずみずしく受け止めることができていると思う。それが記憶を喪失できない私のささやかな抵抗だ。