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犬本番猫支度

Simple and Clean

怒るよりも祈りを

この冬に、怒りを投げかけられることがあった。私は黙ってその怒りを受け止めるだけだったのだけれど、怒り怒られることでお互いの気持ちが晴れていくような雰囲気がそこにはあって、一方的に怒られることにも前向きな意味があるのだなあと後から改めて思った。

自分の事を思い返すと、私は「怒るべき」と周りから思われるタイミングで怒らないことがあって、他の人から指摘される度に、それはそういう性格だからだろうなあ、なんて漠然と感じていた。でもよく思い返したら私は全く怒ることがないわけではなく、状況に応じて怒っていたし、相手に怒らないときにも怒りたいことだって勿論あった。怒りたいときに誰かに怒るって簡単なことなんだけど、遠慮無く怒るときと怒らないときが私にはあった。「怒り」は最もセンシティブな感情の発露なのに、怒ることに対する自覚が薄いことはとても危なっかしいことで、なぜ怒らないのかをちゃんと振り返ってみる必要がある。それが私のこの年末の課題だった。

怒ることと理解することは、正反対のものだと思う。相手が怒り出すと、もう何を言っても理解してもらえないモードになる。それは怒られている側にしてみれば、本質的には何も相手に言う必要がないってことでもあるので、怒られるのはちょっと楽。そして怒りが過ぎ去ると問題は少し薄まって、お互いの関係性もちょっと変わる。そこには、手札と場札を全取っ替えしてしまうような投げやりさがあって、その大事なことを有耶無耶にしてしまうような感じは好きじゃない。

怒りたいことがあった時でも、相手が何故そういうことをしたのかを理解したいと思う。だから怒りたくないのだった。怒らないことは、相手を信頼していることと同じだ、と私は思っている。相手を信頼していて、今自分の目の前にある怒りたいことも相手が何かを考えての結果だと思っているからこそ、相手を理解しようと思う。それは私が優しいからではなくて、単に私がその相手に興味があるからだ。自分の思い通りにならなかったことを面白いなあと思えるような気持ちが、きっとこの根底にある。

怒ることは感情的な行動で、怒らないことは感情を殺すことだけど、怒らずに理解しようとすることほど、相手の感情に寄り添う行為はない。怒られている時って、ああ今蔑ろにされているな私ってうっすら思うしね。冷静と情熱は対義語のように扱われるけれど、時に冷静さは、相手の情熱を正しく酌み取ることだと思う。

ただでも、怒らずに相手を理解しようとするのは実際には相当に面倒臭い。理解したつもりになるだけの独りよがりな行為だと思うこともあるし、怒って気を晴らした方が手っ取り早いと感じてしまうことだってある。怒ることがコミュニケーションの一つだってことも分かる。でもこうやって、静かに誰かとの問題や関係を考えるのは、きっと「祈り」のようなもので、相手のことを考えながら一方通行の想像を募らせていくことには、沸き立つ感情への正しさがあると思った。怒りも祈りも、コミュニケーション方法としては不器用だけど、怒るくらいならせめて祈りたいと思う。

明日は元旦、日本人が一番祈る日で、何かを祈るように書き始めるには丁度良いタイミングだなと思ったのでした。