犬本番猫支度

Simple and Clean

思い出はいつも喜怒哀楽

過去になってしまった大体の思い出は寂しくて辛い。でも、辛い思い出になってしまったことでも、忘れてしまいたくないと思うことがある。

楽しかった思い出だけを心に抱えていけると楽だとは思うけど、大抵の思い出には喜怒哀楽が複雑に混ざり合っていて、綺麗な思い出なんて一つもない。思い出の中の楽しさが、その楽しさが既に過去になってしまった寂しさを伴うように、辛い思い出を紐解くと、楽しさや嬉しさが含まれていることだってある(ので、ただ辛かっただけの思い出は積極的に忘れたいし忘れます)。

楽しい思い出が最後には寂しい思い出になることが分かっているので、寂しい思い出すら大事にできていると思う。むしろ、寂しさや辛さによって楽しさがパッケージ化されて「思い出」として完成するような感覚がある。だから「楽しかったあの日々が戻らないかなあ」と今と直結するように思い出してしまうよりも、「あの時は楽しかったなあ」と今となっては変えることができないものとして思い出せる感じこそが好きだ。

アドベンチャーゲームのように過去に戻って、自分の選択をやり直せたら良いのになあと思うことはよくあったけれど、そういった気持ちを引きずって誰かとの関係を再構築できたことは一度もないのだった。過去にできた多くの友達とはもうすっかり疎遠になってしまっているのは、私が過去を過去としてしか捉えられなくなってしまっているからかもしれないなあ。私の社交性が低いのも原因だけど。

それでも過去の友達と何年ぶりに会うことがあって、そこで昔の話じゃなくて、今の話ができるのはとても楽しかった。でもその時にまた近況を連絡し合うようになりたいと思うことはなくて、また数年後に会えたら良いなあと思うだけだった。昔の関係の延長線として、友達の大事な情報だけが少しだけアップデートされる位が丁度良いと思えた。素性をよく知らない人がSNSで日常を綴っているのは面白く読んだりしているのに、不思議な感覚のような気はした。でも、改めて小さな日常の様々を知り合うことが、この友達関係に必要だとは思わなかったのだ。日常を共有することで構築できる関係性は、もう既に思い出として残っていた。

きっと現実を「変化するもの」として楽しむために、思い出をそのままの形で忘れずに心にしまい込んでおきたいんだと思う。思い出を自分の中で楽しい部分だけに加工してしまうと、きっと進行中の現在と区別が付かなくなってしまう。現在は現在で、過去は過去なんだと切り分けるために、思い出は喜怒哀楽そのままにしておきたいと思う。