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犬本番猫支度

Simple and Clean

物語の観測者

自分の目の前で今展開されている物語の結末は、既に決まっている。

未来は無限の可能性を秘めているはずなのに、その物語の未来は既に決定されているという事実。作者にとって物語は全て過去の出来事であり、その物語が私にとって「過去」であるか「未来」であるかは、私が知っているか知らないかの違いだけなのだ。私が知らないだけで、その物語の行く先は決まっていて、登場人物の運命は確定している。

「そんなんじゃ意味無い!」と唐突に思って映画を観る気を無くしたり、小説が読めなくなることが、十代の頃にはあった。結末がまだ確定されていない、連載中の漫画の物語が好ましく思えた。自分がその物語に対して何の影響も与えることができないことが分かっていても、結末が決まっていて、目の前の登場人物達がその結末から逃れられない事実が腹立たしかった。

望まない方向に物語が進んでしまったとき、映画の停止ボタンを押したり本を閉じたりすることで、私はその物語から簡単に逃げ出すことができた。でも私がその物語体験を止めてしまうことによって、物語の登場人物達の未来を奪ってしまうように、私は感じていた。私の望まない未来であるかもしれないけれど、その登場人物達の未来を奪う権利は私にはないと思って、私は物語を再開させたのだった。

ストーリーが読める物語を体験することは今でも少し苦手だ。私にとっては知らない世界を体験しているはずなのに、既に決定された過去を見せられている感覚が強くなるからだ。先が読めることで余計に感動が高まることがあることは分かるけれど、それって観客や読者を感動させるために、登場人物の未来を犠牲にしてしまっているよね、と思って申し訳なくなってしまう。私のためにごめん。世の中の物語が何らかのテーマに沿って作られていて、どんなストーリーでも登場人物の未来がそのテーマに沿ったものとして決定されていることは分かるんだけど、それなら先の読めない未来であって欲しい、それが登場人物を不幸にする未来であっても、と願ってしまう。

私が体験する物語の登場人物も、私と同じように不定の未来を生きられたら良いのになあと思う。でもそれって私にとって不定であるかどうかを問題にしていることので、単なる私の我が儘のような気はしてしまう。物語を観測してしまったことに責任があるのだと、私はきっと思っている。

私が演奏などのパフォーマンスをライブで観るのが好きなのは、きっとそのパフォーマンスする未来が確定していないからだ。お互いの現在を共有している感じが好きだ。