犬本番猫支度

Simple and Clean

平凡なドラマチック

目の前の線路に子供がホームから転落、その駅には電車が迫っているとして、私はその子供を助けに行けるだろうか? ということを駅のホームでよく考える。それは私の正義心をシミュレーションしているわけではなくて、主役になれるチャンスを逃さないように日々心構えをしているわけでもなくて、今自分がどれだけドラマに殉ずることができる状態なのかを確かめるためだった。私の場合、心が滅入っていると思い切りよく助けに行ける、気がする。多分判断力が弱くなると、ドラマチックなチャンスに流されやすくなるからだと思う。

ドラマチックの誘惑に抗うことは難しい。映画の主人公のようにドラマチックに振る舞いたい欲望は秘めているので、ドラマチックな行動ができそうなときには、ドラマチックな選択をしてしまいがちだ。そしてドラマチックな選択の多くは大胆なので、普段ならやらないようなことをやってしまう。そうやってドラマチックは人の行動を大きく振り回してしまうし、時には死のハードルをも乗り越えさせてしまう。油断していると私はドラマチックに殺されてしまいそうで、つい私が自分が抱え込んでいるドラマチック願望の大きさを確認してしまう。

ドラマチックな映画や小説を観たり読んだりすることは楽しいし、平凡な生活よりドラマチックな生活の方に憧れる。それでもドラマチックなチャンスがあったからドラマっぽい行動を取る、というのは何か間違っている。ドラマチックの奴隷みたいだ。俳優としてドラマの登場人物を演じているだけで、そのドラマは自分のものではない気がする。ドラマチックさには得体の知れない「正しさ」があって、その正しさが私の判断力を麻痺させてくるんだけど、そもそも深く考えずにドラマチックな役柄を演じてしまうこと自体が平凡な生活の延長線なのだ。ドラマチックに憧れるという発想自体が平凡なので、そこからどう足掻いても平凡な生活からは逃れられないのだった。

操られるようにドラマチックな行動を取ってしまうより、線路に落ちた子供を助けるかどうか迷う方が人間らしい気はするし、迷う瞬間と余裕があった方が、その状況に応じた冷静な行動を取ることができるのできっとその方が良いと思ったけど、だからこそ私は主役にはなれないのだろう。「考えるより体が先に動きました」と言えるようになりたい気持ちはあるけれど、そもそも考えていないんだから「考えるより先に動けるかどうか」について考えることに意味はない。なので主役になりたいなら日頃から身体を動かすのが一番の近道だよね、という結論になった。思いも寄らないことの多くは身体から生まれる。