犬本番猫支度

Simple and Clean

犬好き猫好き

犬が好きだけど猫も好きだ。だから「犬派? 猫派?」と訊かれても困る。

私の実家で犬を飼っていたこともあって「犬が好き」と答えるけれど、猫が好きな人からは犬派かよ! と敵視される。「いや犬も猫も好きだけど」と補足すると、次は犬が好きな人から裏切り者! と罵られる。意味わからん。変な理屈で私の好みを否定しないでほしい。犬を好きになるために猫を嫌いになる必要なんてないのに! と思うけれど、犬が好きな理由を訊いたときに「猫が嫌いだから」と言われたこともあったので、きっと人それぞれ筋の通った理屈があるのかもしれない。でも対立構造に巻き込むのは止めてくれ。

自分の好きの大きさを証明するために、何かを嫌いになったり他の人と好きを競いたがる人がいることに具体的に気付けたのは中学生のころだった。そのころのクラスメートはどのアイドルグループが一番好きかで言い争っていて、お互いの好みの押し付け合いをした結果、誰かの好みに染まったり、アイドルのアンチが生まれたり、友達グループがシャッフルされたりした。私は「そういうのに興味ない人」と思われていたので蚊帳の外だったけれど、アイドルに興味がなかったのではなくて、クラスメートと好きの大きさを比較することに興味を持てていなかった。私は自分の好きを誰かに認めてもらう必要を感じていなかったし、そもそも私が好きな音楽は誰も知らなかった。雑誌を読んだりFMを聴いたりCDをレンタルして、私が好きになれる音楽を探す行程だって好きだったし、そうして発見した音楽への好きは純粋なものだと思えた。

高校生になると環境が変わって、自分の好きなものを勧められるようになったけれど、逆に誰かから勧められたものはなかなか好きになれなかった。趣味を共有できる友達関係を維持するために「好き」と言わなきゃいけないような気がしてしまって、本心から好きになれたのか友達に義理を感じて好きになってしまったのか、自分でもわからなくなってしまうばかりだった。きっと自分の好みに対するプライドが高かったんだと思う。誰かの好みを受け入れられるようになったのは大学生のころからで、それは好きをコミュニケーション手段として強要してくるような閉鎖環境から抜け出せたからだった。

人の好みを訊くのは他愛ないコミュニケーションの手段であることはわかっているけれど、私はどうしても自分の好みを正しく相手に伝えたいと思ってしまう。私は何気なく口にした私の好みが、相手に対する好意や敵意の一つとして受け止められる可能性があることを知っているし、それがわかっていても私の好みに嘘をついて相手に合わせることができない自分の性格もわかっている。もし私の好みが誰かの気分を害してしまうのなら、好みを正しく伝えて嫌われるべきなんだ。犬も猫も大好きです、と言い続けていくように。