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犬本番猫支度

Simple and Clean

誰かの気持ちを想像するころ

勝手に誰かの気持ちを解釈してしまうとき、きっと私はその誰かを遠く感じている。

誰かの気持ちを私が解釈できると思ってしまうのは傲慢だ。私の本心ですら私は把握できてないのに、誰かの気持ちを完全に推し量ることなんて無理なことはわかっていた。だから私は誰かの気持ちを想像したとしても、それは自分の中に秘めるようにしていた。

それでも、誰かに一歩踏み込んで声をかけたいときには、自分の想像した誰かの気持ちをその誰かに直接伝えなきゃいけないことがある。「○○はこう感じていると思うけど、私はこう思っているよ」と誰かに伝えるとき、私は自分の僭越さに恥ずかしくなっていた。自信満々に想像してるけど、それ間違ってたらどうするの? 自分の気持ちを勝手に解釈されて説教されるのはきっと誰もが体験してる最悪のシチュエーションだから、私はせめて自分の気持ちを伝えるための言葉を尽くさなくちゃいけなかった。自分の傲慢を包み隠せるくらいの愛情をその傲慢の上に積み重ねていく必要があって、もしかしたら的外れな想像をしているのかもしれないけれど、それでも相手の心に届くような言葉を繋げたいと思っていた。

悪意も同じだった。私は誰かに悪意を伝えるときにも同じように、その気持ちを想像した上で悪意を突き付けた。それはより深く相手に悪意を伝えるための行動であり、相手を打ちのめすために私は相手の気持ちを想像していたのだった。愛情でも悪意でも結局私は、私が伝えたいことを伝えるために、誰かの気持ちを想像しているだけだった。

自分の言葉を伝えるために相手の気持ちを想像するとき、きっと私の想像した相手の気持ちは、私の希望に沿って捻じ曲がっている。相手が私に示してほしい愛情だったり、これ以上に私が傷つくことがない想定だったりを前提にして私が言葉を尽くすとき、私の本音は相手の気持ちを想像した部分にあるのかもしれなかった。「○○がこう感じてくれていたら、私はこんな言葉を伝えることができたのに」と相手に暗に伝えること。そのときの私の中にあるのは、微かな諦めだと思う。

誰かの気持ちを自分で想像するくらいなら、直接気持ちを訊けばいい。それをせずに自分で気持ちを想像していくのは自分の想像に浸れて気分はいいけれど、相手のことを蔑ろにすることでもあった。相手に気持ちを訊かずに私の想像の範囲で収めておこうとしてしまうのは、私がその相手への興味を失っているからで、もうその関係は作業と義理でしかない。

だけど直接気持ちを訊くことが、もうできないこともある。そのときに私が相手の気持ちを想像し言葉を続けてしまうのは、やっぱり微かな諦めだと思うけれど、そこにはきっと相手に対する祈りも混ざっていた。相手の幸福を願うような、場合によっては不幸を願ってしまうような、相手に伝わるかどうかわからない言葉を懸命に生み出す。その言葉はきっと何にもならずに消えていってしまうけれど、同時に他のものも消し去ってくれる。

そんな消えていくための言葉の存在は美しいと思うけれど、私はその言葉を思い出せないし、もし言葉が残っていたとしてもその言葉に込めた気持ちを思い出すことはもう無い。