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犬本番猫支度

Simple and Clean

誰かの感情は届かない

体調によって自分の考え方が左右されてしまうことがあるのは自覚していて、体調が普通の時には許せなかったことも体調が悪くなってくると許せたりするし、もちろんその逆だってあるから、私の思考はいい加減だなあと思っている。

「許せるかどうか」を考えている時点でそれは私の感情的な判断に左右されてしまっているし、一定の判断ができないことなら、それはきっと許せても許せなくてもどっちでもいいことなんだろう。ただ人によって判断が異なりそうな部分でどう判断するかこそが人格なんだろうし、だから私は相手の意見を尊重できずについ「私の感情に従った場合の善し悪し」を口にしてしまうんだろう。自分の感情を表現するために。

ただ逆に相手から判断されるとして、一対一でコミュニケーションをしているときに相手が私の行動を許してくれなかったら、きっと私は相手の話を訊くんだけど、私が多数の人に向けた行動について色々な人から感情的に意見を伝えられたとしても、無視することはあるんだろうなあと思う。論理的に納得できる意見じゃなくて、私を妨げてくる他人の感情的な意見になんて興味がない! ってわけじゃないんだけど、多数の人が相手だと歩み寄れる距離も少ないので聞くだけにしかならないな、と思ってしまう。感情的な意見を言う人の中には、意見を言ったことを第三者に伝えることが目的になっている人もいるし、あえて大っぴらに感情的な意見を伝えることで、他の人の溜飲を下げさせて私への同じ意見を封殺するという大技を繰り出してくれる人だっているし、いずれにしろ感情的な意見をそのまま受け入れるのは難しいのだった。

相手の感情を害してしまう振る舞いというのは確かにあって、論理的に何かを伝えようとするときにこそ、相手の感情を害さないように振る舞う必要がある。自分の出した意見を後から振り返ってみると、直感で思い付いた感想に対して論理的だと思える道筋を引いてみて「論理的な意見」とするパターンを私はよくやってしまっているし、どうやら多くの人もそうみたいなので、論理的な言葉を尽くせば相手には理解してもらえるはずだ、という考えは甘いんだなと気付いた。まず感情で否定されてしまうと、論理的な説明で認め直してもらうのは難しい。メールだと理解できなかったけど電話や会って話したら理解できた、とか感情に左右されてるだけなんじゃないの? と思うんだけど。

とはいえ感情的に考えなかったら良いってわけでもなくて、論理的にだけ考えてみた結果、その考える材料が足りてなかったせいで間違った結論を出してしまうことだって結構あるから、何かを考えるときに感情と論理を両輪にするのがきっと大事なんだろう。意見として説明するときにそれが論理的になっていて、他の人が論理的に理解できる内容であればいいんだと思う。感情と論理の片方だけに頼ると危険で、これはきっと人間だから仕方ないことなんだと思う。

音楽だったり映画だったり、芸術的に感情を揺さぶったものを批評するって大変だなあと私が思うのは、感情的に受け取ったものを論理的に説明しなければならないからだった。感情的なものをそのまま感情的に表現してしまうと、相手には共感や反発が生まれるけれども、それは人によって受け取り方が異なってくるので批評としては成立していない。単なる感想だしそこから議論は生まれない。感想と批評は全く別のものであって、他の誰に対しても同じようにその感情的な経験を伝えたい場合は批評をする必要があるし、批評をするとなると作品のつくりを分解して感覚と結びつけていくことになるので、批評はその分野に対する経験と知識や広い視野、深い思考がないとできない。私は作品に対しては感想しか書けないんだけど、批評できる人は尊敬するし、誰かの心に正しく届くのは批評だけだと思う。

感情的な意見を持った人に自分の意見を伝えるときには、この批評が必要になるんだろうな。批評は特殊な技能だと思うし、相手の感情に切り込む危険な行動だと思うけど、人生の切り札としては必要なのかもしれない。感情同士ですれ違ってしまうより、この方がきっと相手と対話できている。