犬本番猫支度

Simple and Clean

私はやさしい人といわれない

「二十五人に一人、良心を持たない人がいる」というフレーズを時々目にする。それを始めて見たとき私は、周りの人が私のことを「良心を持たない人」だと思っている割合はもっと高いんだろうな、となぜか思ってしまった。私はきっと良心を持っている人間なんだけど、その私の良心が周りに伝わっているとは思えなかった。

小学校のときに「クラスメイト全員の良いところを書いてみましょう」という授業があった。一人一人が紙に書いたその内容は先生によって集計され、最後に「クラスメイトが感じているあなたの良いところ」として個別にまとめられたプリントになり、私たちそれぞれに渡された。自分が他人からどう見えているのかを学ぶ授業だったんだと思う。

そのプリントによると私はクラスメイトの多くから「やさしい」と思われているようだった。意外な言葉だったので私は嬉しくて、自慢しようと数人の友達とプリントを見せ合ってみたんだけど、友達のプリントには「体育ができる」「かしこい」「かわいい」「おもしろい」など、「やさしい」より個性があって魅力的な言葉がたくさん並んでいた。私は恥ずかしくなってしまい、その輪から離れてしまったのを覚えている。

「やさしい」は本当に私のことを優しい人だと思って書いた評価じゃなくて、目立った取り柄がなく何の印象もない私への無難な言葉だったんだと、私は気付いてしまった。私は先生に、私の良いところって何だと思いますか? と訊いてみた。先生は、私の持っていたプリントに目を落としてから私に「やさしいところだと思うよ」と伝えてくれた。

もしかすると、そのときの私は本当に他人への優しさが目立っていたのかもしれない。でも私はこのときから、優しさに価値を見出せなくなってしまった。人に親切にするなんて誰もが当たり前にやっていることで、誰にだって優しさはあると思っていたから、「やさしい」という評価を私の誇りとすることができなかった。優しくて普通だ。だからそれからは、優しさ以外で自分らしさを探すようになったし、優しく振る舞ってしまった自分を後から苦々しく思うようにもなってしまった。もう優しい人と言われたくはなかった。

このときの気持ちは今もまだ私の中に残っている。誰かに優しくするよりも、別のことで認めてもらいたいと思ってしまうせいで人付き合いが下手になったし、誰かに特別な親切をすることが苦手になってしまっていた。知らない人には自然に親切にできるのに。こうして今も優しさを見せないように生きてしまっている自覚があるから、周りから「良心を持たない人」と思われてしまっているかもしれないな、と思ってしまったのだった。

優しいと言われたくない、なんて誰かの目線で考えてるから自分の軸がねじれてしまって、生き方が下手になってるんだよな、と思う。自分の思いを意識してその本能に従うように行動すれば、もっと自分が納得できる行いができるはずなんだ。そう思ったところで、その自分の思いこそが「良心」であることに気付いた。優しい人と言われなくてもいいから、自分の良心に従って生きていけばいいのだった。

行動を変えていくのは難しいけど、信念としてはシンプルな話。きっと。