読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

犬本番猫支度

Simple and Clean

書きたいこと、書かなくていいこと

いつの間にか、インターネットを検索して、世の中のご機嫌を伺わないと自分の意見を書けないようになってしまっていた。

自分一人の意見より、知らない百人が言葉を交して大勢となった意見の方が、誰が読んでも納得してもらえるだろうと考えるのは正しい。でも多数の意見と一致していることを確認した上で書く自分の意見なんて、何の価値があるんだろうな。無責任に書き捨てられている言葉の方がまだ価値があるように思えた。

誰かの意見を参考にすることにはきっと意味があるけど、その意見に影響されて自分の意見がなくなってしまうのなら、もう私は何も書かない方がいいなと思った。そこにはもう私の人格はないんだから。誰かの意見を目にしたことで自分の考えが止まってしまうことはあるけど、そうなったらもう私は「同意する」以外には何も言う必要はないはずだった。

納得してもらえる意見じゃなくて、自分の意見を言葉にしたいはずだったのにな。賛否両論ありそうなテーマがあったときに、自分で考える前にまず誰かの意見を確認してしまうのは思考停止だし、場の空気を読んだ上で意見を掲げて正しさを訴えようとするのは、もうゲームだよなと思う。意見の「正しさ」を競っているだけだ。ゲームならむしろ、掲げる意見が私のオリジナルじゃない方がいい。正しさを否定されてしまったときに私の心が傷つかないし、マジになっちゃってどうするのって立場でいられる。こんなくだらないことに気を回しているうちに、意見は意味を失っていく。

思考って本来ものすごく大変なことなんだ。情報を正しく把握して自分の頭で突き詰めて言葉にするのは、かなり頭を使うし時間がかかる。ただそんな苦労も誰かの意見を真似ちゃうと簡単にショートカットできてしまうから、誰かの意見を真似る誘惑に勝つことは難しい。誰かの意見を要約しながら自分の意見も混ぜ込んでみると、オリジナルの意見のように仕上げることはできてしまう。誰かの意見を正しさの隠れ蓑にしながら私の意見も主張してみると、なんだか私も正しいことを言えている気がしてくるけれど、その言葉って私にとってどれだけの価値があるのかな? って考えてしまうタイミングが後で必ず訪れる。世間から正しさが問われなくなったころに読み返してみて、これは私の言葉じゃないなと感じたのなら、もうその言葉には価値はない。

私の言葉だけで書こうとすると、自分の世界の狭さに気付く。ただ自分の世界の狭さでは書けないことは、私の言葉として書かなくていいのだった。自分のスケールで言葉を書けばいいってことに気付くのに私はとても時間がかかってしまったけど、スケールの大きさに気付けたからこそ、それを大きくする努力をするようになった。そして虚勢を張る必要のない言葉を書くのは楽しい。