犬本番猫支度

Simple and Clean

適度なセンチメンタル

大人と子供の大きな違い、大人にあって子供にないものは、大人らしく振る舞わなければならない責任感だと思っていて、もう少し具体的にすると「平常心でいることを求められること」だと私は思う。平常心って人によって違うと思うんだけど、その人それぞれの平常心を逸脱しないようにするのが大人として求められてる振る舞いなんじゃないか。私は大人を生きていて、そう求められてるなと思う。

何か失敗をしたときとか、気分が落ち込んでいるときとかに、やさしく励ましてくれるのが大人だ。調子に乗ってしまったりキレてしまったときに、やさしくたしなめてくれるのも大人だ。感情を出すことってみっともないし落ち着かない、平常心でいるのが一番だよね、って共通認識が大人の間にはあって、その認識に皆従うことを求められている。働いているときには特に、平常心を保つことが良識ってことになっていると感じる。

働きはじめて少し経ったころ、社会人同士の会話で「仕事のストレス解消法は?」って質問が定番になってることに驚いた。「仕事があなたのストレスになっていますよね」ということがそもそも前提として成り立つんだ! ということが不健全だなと思ったし、そのストレスを与えているのは自分かもしれないのに、そんな質問が定番になるくらい交されていることが奇妙だなと思った。関係性によってはこの質問自体がストレスだよね。仕事ってストレスを相手に与える無神経さが許容される世界で、だから皆平常心を保たなきゃいけないんだ、ってことをその質問で私は実感したのだった。

あと、私が趣味を話したときに「それがあなたのストレス解消法なんだね」って趣味をストレス解消法だと言い換えられるのが腹立つ。私はストレスがなくても音楽は聴くし、アクション映画を観てストレスが解消されるって事もない。その時にストレスを忘れたとしても、原因が残っていればストレスはまた思い出すしね。「平常心で働いてストレスを溜めて、休日はそのストレス解消法をして平常心に戻る」って心から仕事を中心に置いている生活だし、ストレス溜めた自分と平常心の自分を行き来するだけって、気持ちに救いがないよなと思ってしまう。

平常心で仕事をしなきゃいけないのは仕方ないなと思うけど、相手に平常心であることを求めるのは間違っているんだ。平常心で仕事をして、それでお互いストレスを溜めないのが一番いい。平常心を保っている相手にストレスを与えてしまっていて、「あいつストレス溜まってそうだから飲みに連れて行こう」なんて、レクリエーションとしては良いことなんだろうなと思うけど、それで感情が収まっても、ストレスの原因が解消されないんだったら同じことの繰り返しになるだけだよ。

あるとき、平常心でいることに慣れて、自分の感情を反射的に平常心に戻してしまっている自分に気付いた。ある程度のストレスは受け流す心の持ちようを身に付けていたけど、それは私の感情を麻痺させていったし、このままの生活だと私自身が何も感じなくなってしまいそうだった。それってすごく嫌だなと直感的に確信してしまった私は、それから働いているときでも平常心を保ち続けることができなくなってしまった。でも、少し変な人だと思われる程度で、そんなに大きな問題はなく働き続けることができたので、私は拍子抜けしてしまったのだった。

人に不快感を与える感情があれば、好感を持ってくれる感情もある。感情を出すにしても出さないにしても、結局は相手のことを想像して相手と会話することなんだな、ってことに気付いたのはそれからもう少し先のことだ。感情を出し入れするようになる余裕ができると、やり取りの中に自分の言葉も上手く混ぜ込めるようになってきて、私は働く相手との会話がちょっと楽になった。相手にとって従順で理解しやすい人を演じる必要はないんだ。そのことは私の気持ちを少しだけ自由にしたし、それから私は「日々生きてるな」って思えるようになった。