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犬本番猫支度

Simple and Clean

共感なんて共有なんて

作品に対して未知のものを求めてしまう気持ちと、共感できる部分を求めてしまう気持ちの両方が私の中にあって、私はそれを都合良く使い分けてしまっていることにふと気付いた。共感を得て大ヒットした曲を聴いて退屈だなあと思ってしまうことがあるけど、奇抜な設定のSFの中で共感できるシーンがあると急に引き込まれて嬉しくなったりするから、私の評価軸はいい加減だなと思う。

同じように共感されるために作られた作品に共感することと、ありのままの表現に共感することが、私の中で異なっているのかもしれないな。わかりやすく解釈できるようお膳立てされたものを体験することが退屈に思えて、決まった理解を求めない表現の中で感じ取れた共感に夢中になれる、ってことなのかもしれない。ただその作品がどんな目的で作られたのかなんて私が勝手に想像してるだけだから、誰にも理解されないだろうと思いながら作られたものが大きな共感を呼んだのかもしれないし、逆だってきっとあるだろう。こんなのは作者に失礼な話だった。

好きなものを共有したい気持ちって、同じように共感できる作品を共有することが前提になっていないとおかしいよなって思うことがあった。作品を通じて自分の気持ちを誰かと共有したいんだったら、解釈の幅が狭い作品を共有するのが確実だ。それなのに私は好みが分かれそうな作品を誰かと共有して、退屈だとか興味ないとか言われてがっかりしてしまうことがあった。そんな反応は覚悟できていたはずなのに、ショックを受けてしまう私は馬鹿だなと思う。何のために私は誰かとその作品を共有したんだろう。

私はその作品を通じて自分の価値観を共有したかったんだろうか。違うな。価値観なんて突き詰めてしまうと誰とも一致しないことなんてわかっているし、誰かの価値観を確かめたいだなんて、その時の私は求めていなかった。

好きな作品への誰かの感想が自分と違っていたら、きっと私は嬉しい。私と同じようにわかってくれることなんて求めてなくて、違う解釈があったり、わからないけど面白いね、なんて言われたら作品の幅が広がったように思えて面白いだろうなと思う。好きな作品をもっと他の人に体験して欲しいと思う気持ちは、きっと私がその作品のことをもっと知りたいからなのだった。

でもそんな私の「わかりかた比べ」に付き合ってくれる人なんて世の中には多くない。自分と同じように感じて欲しがる人は多くて、私は誰かに作品を薦めるのは緊張してしまう。だから作品を受け止める側として、お互い自由に感想を交わすことを許してくれる人はありがたいなと思うのでした。身勝手な話です。