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犬本番猫支度

Simple and Clean

気まぐれな親切

「とっさの判断で人を助けることができるかどうかで、その人の人間性がわかる。考えるより先に身体が動いてこそ、真の善人だ」って風潮があるような気がしている。電車で席を譲るような、悩んだり迷ったりする猶予がある親切は誰にでもできるけど、目の前で子供が車道に飛び出したときにすぐに身を投げ出して助ける、といった瞬発力が必要な行動にこそ、本当の価値があると考えられている気がする。私はそんなとっさの判断が大の苦手なので、真の善人とはきっと認めてもらえない。

私は気が向いたときにだけ良いことをするような人間なので、たぶん心からの善人ではないのだった。本屋で床に落ちている本を見かけたとき、拾って戻すときもあれば、戻さずに素通りするときもある。いまどうして本を戻したの? 戻さなかったの? ってもし誰かに訊かれたとしたら私は「そんな気分だったから」って答える。そんなもんだ。でもきっと世の中の善人は、良いことが正しいという確固たる信念があるに違いなく、良いことをするかしないかで迷うことなんてないんだろうな。

私は昔、親切をされたら嬉しいから私からも親切をするとか、親切をすると巡りめぐって私に戻ってくるとか、理屈めいたことを理由にして親切をしていたことがあった。わかりやすい理由があることで、安定した親切品質を世間にご提供することができたのだ。でも最近はそんな理由が親切の動機にならなくなってしまった。誰かに親切にされたいって気持ちが薄れてしまったからだと思う。親切をしなきゃいけない、という強い気持ちがなくなってしまったけど、でも親切をしたら気持ちがいいし非日常的だって意識もある。その結果私は、気分によって親切をするような人間になってしまったのだった。

大人になって、更に歳を重ねていくうちに、行動基準がどんどん曖昧になっている自分にちょっとビックリしてるよ。子供のころの私のほうがよっぽど安定して行動してた気がするな。子供のころはテストで満点を取ることもあったけど、今はどんなテストでも満点なんて取れないしね。それはテストで満点取っても褒めてくれる人がいなくなったからかもしれないけど。

きっと、自分で自分を認められるようになったからだろうな、と思った。善人のふりをしなくても、自分で自分のことを認められる。他人の評価で自分を支えなくていいって気持ちになれたから、自分の気分で親切をやるようになれたんだと思う。自分の感情に正直になった上で誰かに親切をしたくなる気持ちって、世の中の多くの人は小学校に入る前から芽生えているような気がしてならないんだけど、私は大人になってから、やっとだ。この気持ちを育てることができたら、とっさの判断で良いことをすることができる人間になるかもしれないな。車道に飛び出した子供をかばって私が犠牲になったときには、ぜひみんな喜んで欲しいな。