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犬本番猫支度

Simple and Clean

感覚的に嫌いな私を許して

何かを好きって言うよりも嫌いって言うほうが気をつかうのが最近のSNSのご時世であり処世術なんだけど、そんなことは分かっていながらも何かについて嫌いだって書いてしまっている誰かの言葉が私は好きだ。

ファンの人に検索されないよう伏せ字を使ったり、露骨に嫌いだとは書かないように言葉を選んでいるんだけど、そこまで気をつかいつつも心にしまっておくって選択はできなかった、その誰かの嫌う言葉ってとても練られていて面白いなって思う。どうしてもこのネガティブな気持ちを何らかの形で吐き出さずにはいられなかったんだ! って気持ちが見え隠れしてしてる言葉があれば、自分がそう感じた理由をきっちり書くことで、みんなに嫌いな気持ちを納得してもらおうとしてる言葉もある。好きって言葉よりもその人の個性が出てるときがあって、その言葉に私が納得できるかどうかってことは関係なく、面白いと思える。

嫌いなものを嫌いって言うよりも好きなものを好きって言ってたほうが楽しいしポジティブだなって思うよ。でも嫌いな気持ちを全く抱かないなんてことはないし、ネット以外ではその嫌いな気持ちを誰かに言ってたりする。嫌いって気持ちは自分の中に確かに存在してる。その嫌いって気持ちを心に留めておくのもネットで言葉に残していくのもその人の自由だ。その人のホーム画面に好きと嫌いの両方の言葉が並ぶとその人の輪郭がちゃんと見えてくる気はするけど、輪郭を隠したい人だっているだろう。でも私は言葉から見えてくる、その人の輪郭が好きだ。

好きって気持ちを突き詰めていくと感覚的なところにたどり着いてしまうことがあるように、嫌いって気持ちも感覚だったりする。だから「それを正しく理解すれば嫌いになんてならない」ってことにはならない場合がある。感覚的に嫌いなのはもう仕方がないことで、嫌われた側も諦めるしかないし、気にすることもない。誰かから何かを好きな理由を聞いて、私もそれを好きになったりすることはあるし、素晴らしい評論には理屈で感情を動かす力があると思うけど、毎回そんなことが起こるとは限らない。誰かの好きな理由が私の中にある嫌いな気持ちを覆せない可能性はあるし、それは仕方ないと思って欲しい。

過度に共感を求め続けていくことは、好きな気持ちを強制していくことに繋がっていく。共感を求められて同調していくうちに、自分の感情とは違う言葉ばかりを書くようになってしまったら、もうその言葉には価値がない。嫌いって言葉には、そんな共感や同調に反発していくような強さがあるし、その言葉はその人の本音なんだろうなって思える。好きって言葉と嫌いって言葉が両方平等に転がっている世界で、好きって言われたことにが価値があるんだよね。間違いなく。(なので嫌いって常に言ってるような人の言葉には価値がないし、嫌いな感情ばかり聞かされても単純につまらないです)